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集団の利益を代弁する役割は苦手

 給料をもらって働いていると、自分が所属する小さな集団を代表して他の組織の誰かと交渉し、交渉の場面において、自分が所属する集団の利益を代弁して何かを主張しなければならないことがある。これは、私がもっとも苦手とするところであり、これまで、ながいあいだ、集団の利益を代弁しなければならないような仕事からは逃げ回ってきた。今でも逃げ回っている。

 私は、自分のことにしか関心がないのであろう、あるいは、集団への帰属意識に乏しいのであろう、自分の利害にはそれなりに敏感であるけれども、集団の利益という抽象的なものに関心を向けるのには、特別な努力を必要とする。だから、集団の利益を代弁する席に着くと、交渉を最短で終わらせることを目標に、万事において簡単に妥協してしまうことになる。これは、集団にとっては大きな損害となるに違いない。

家族の利益を代弁することができるかどうか自信がない

 このような私であるから、職場の利益を代弁することが苦手であるばかりではなく、家族の利益を代弁するような立場に身を置くこともまた、できることなら避けたいと思っている。というのも、家族の利害にかかわることに関し、簡単に妥協してしまうのではないかという懸念を自分自身について抱いているからである。家族の利益を守ることが面倒になったら、家族を捨ててしまう虞があるわけである。

 職場の利益を守るのが面倒になったら、仕事をやめればよいけれども、家族の利益を守るのが面倒になったからと言って、家族を捨てて逃げてしまうわけには行かない。家族のために泣いたり怒鳴ったりすることができるというのは、私にとっては、決して当たり前のことではなく、「どんなことがあっても君(たち)を守る」などと家族のメンバーに約束するなど、恐ろしくて私にはとてもできない。家族というのは、職場とは異なり、自由に加入したり脱退したりすることができる集団ではない。だから、家族に関しては、利益を代弁せずに済ませるなど、いかなる場合にも許されないことになる。だから、いずれかの家族に属することは、すでにそれ自体として、私の目には大きなリスクと映る。

自分の利害すらどうでもよくなるのではないかという懸念

 しかし、さらに反省を進めて行くと、本当は、自分の利益すら、私にとってはどうでもよいことであり、最終的には、私にとって是が非でも守らなければならないものなど何もないことが明らかになってしまうような、嫌な予感がしてならない。「本当に大切なものとは何か」「何が何でも守らなければならないものは何か」……、自分に対しこのように問いかけても、明瞭な答えが得られないからである。これは、非常に恐ろしいことである。守るべきものが何もない、大切にすべきものを何も持たないことは、人生において寄る辺がないことを意味するばかりではなく、それ自体が悲惨なことでもある。それは、信仰を失ったキリスト教徒の悲惨と重ね合わせることができるような性質の何ものかであり、ニヒリズムないし絶望へと差しかけられた者の悲惨であるように思われるのである。このように考えるたびに、私は、さらに自分自身の空虚さを自覚し、そして、愕然とする。