AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:想像力

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この問いに対する答えには、答える者の素姓が映し出される

 「100兆円あったら何に使うか」。この問いは、想像力を刺戟するばかりではない。この問いに対する答えは、答えた者がどのような人間であるかを正確に教えてくれるものであるように思われる。ブリア=サヴァランの格言を模倣し、次のように言うことができるであろう。「100兆円あったら何に使うかを言ってみろ、そうしたら、私は、君が誰であるかを言ってやる」。

 とはいえ、この問いに対する答えはほぼすべて、次の3種類のいずれかに分類されるはずである。

(1) 個人的な贅沢のための無駄遣い

 「100兆円あったら何に使うか」と問いかけ、そして、1日かけて答えを出すよう求められたとき、私たちが最終的に辿りつく使い道は、どのようなものであろうか。100兆円というのは、現在のわが国の一般会計の予算の総額とほぼ同じであり、個人の家計の規模からは乖離した途方もなく巨大な金額である。だから、100兆円に見合う支出とはどのようなものであるのか、直観的にはわからないのが普通である。だから、100兆円の使い道として多くの人の心に最初に浮かぶのは、普段の生活の延長上にあるもののための無駄な支出である。つまり、度を超えた贅沢である。たとえば、無人島を買って別荘を建てる、プライベートジェットを買う、高額なブドウ酒を大量に買い、これで風呂を沸かす、宇宙旅行する、競馬やカジノで散財する、などがこれに当たる。

 日常生活における贅沢というものには、おのずから限度がある。人間の生理的な欲求に明瞭な限度が認められるからである。しかし、100兆円は、この限度をはるかに超える贅沢を可能にする。だから、個人的な贅沢のために100兆円を使う場合、その大半は、単なる無駄遣いとなり、札束をゴミ箱に捨てるのとほぼ同じことになるのを避けられない。これは、想像力の貧困の帰結であると言うことができる。

(2) 貯金や運用

 「100兆円あったら何に使うか」という問いに対する答えとして、もっとも無難な、また、もっとも安直な答えは、「貯金する」あるいは「運用する」というものである。貯金したり運用したりすることにより、使い道を決めるのを先送りすることが可能となるとともに、それなりの利息を手に入れることができる。年利0.001%で運用するとしても、年に10億円の利益が得られるはずであり、これは、平均的な日本人にとっては十分すぎる収入であろう。

 ただ、この場合、100兆円は、ただ利息を産み出しているだけであり、本当の意味において使われたことにはならない。「100兆円あったら何に使うか」と問われ、貯金あるいは運用と答えた者は、100兆円を必要としてはいないのであろう。

(3) 世界(または社会)の変革のための資金

 そして、この問いに対する答えの第3のグループは、使い道を世界あるいは社会の変革に求めるものである。もちろん、この場合の変革とは、NPO法人を作って貧困家庭を救済したり、希少金属をゴミから取り出す技術を開発したりすることから、中国の民主化運動を支援したり、スナイパーを大量に雇用し外国の独裁者や有害な政治家を暗殺したりすることまで、途方もない広がりがあるに違いない。しかし、「100兆円あったら何に使うか」と問われ、この第3のグループに分類される使い道を答えた者は、自分が理想とする社会を心に描くだけの想像力を具えた者であり、第1、第2のグループとは異なり、理想の実現のために100兆円を本当に必要としている点において共通していることは確かである。(また、100兆円があれば、大抵のことは実現可能であるか、少なくとも、実現の目途をつけることができるはずである。)

100兆円の使い道の問題とは、理想とする社会の姿の問題

 100兆円の使い道に関する問いは、理想の社会をめぐる問いに置き換えることができる。だから、「あなたにとって理想の社会とは」「理想の社会を実現するために克服されるべき困難は」などの問いに適切な答えを与えることができない者には、100兆円を使う「能力」が欠けているのであり、したがって、民主主義社会を構成する責任ある主体としての資格が欠けているかも知れないと考えることは、決して不可能ではないように思われる。

Hippy

SNSと狂信の深化

 インターネット、特にSNSの普及は、社会生活において発生するいろいろな問題に関し「狂信」を助長することが多くなったように思う。もちろん、インターネット以前の時代にも、狂信がなかったわけではない。しかし、かつての狂信の拡大には、明確な物理的制約があった。空間のへだたりを超えて「同志」が結びつくことは稀であり、このかぎりにおいて、現在と比較するなら、狂信は散発的、局所的であったと言うことができる。

 しかし、このような制約はSNSによって取り除かれ、今や、狂信者は、ネット上で同志と結びつき、みずからの狂信を強く、そして深いものにしている。狂信者はますます狂信的になり、独善的になって、自分が真実と信じるものにしがみつくようになっているのである。狂信というものの本来の姿が見えるようになったということなのかも知れない。

 狂信は、宗教の専売特許などではない。私たちは、健康情報から政治まで、社会のあらゆるところで狂信に出会う。ただ、あらゆる種類の狂信者は、自分の意見を絶対に変えないことにより、言論空間の「デッドスペース」となることを避けられない。狂信者たちというのは本質的に全体主義的だからであり、意見の多様性というものを少しも認めないからである。だから、立場をいくらか異にする狂信者たちのあいだで話題になりうることがあるとするなら、それはただ1つ、「どちらが『正統』であるのか」という非生産的な問題だけである。

 狂信者を周囲から隔てるのは、「友ではない者はすべて敵」という原則である。「自分の主張は完全に正しい、だから、自分と違う意見の持ち主はすべて悪であり敵である」、このように主張する者の周囲には、同じ意見の持ち主ばかりが集まり、外部に対し暴力的かつ威嚇的な態度をとることが少なくない。また、このような態度は、周囲とのあいだの壁を高く厚くすることになる。たしかに、あなたが「友ではない者はすべて敵」と公言したら、あなたがどのような意見の持ち主であっても、あなたの周囲にいる人間の大半はあなたから離れ、敵陣へと駆け込むはずである。

思いやりの遮断

 もちろん、自分に同意しない者がいるという事実を謙虚に受け止め、自分の意見が完全に正しいわけではないかも知れないということに思いいたるなら、そして、みずからの立場を冷静に吟味することができるなら、狂信に陥ることは簡単に避けられる。そして、幼稚な思い込みから抜け出し、複雑で多面的な現実へと分け入ってこれを承認することが、本当の意味における人間的な成長なのである。それは、「敵ではない者はすべて友」という原則を引き受けることに他ならない。

 この意味において、狂信というのは、想像力の欠落の裏面であると言うことができる。たしかに、想像力や他人への思いやりをあえて捨て、幼稚な状態にあえてとどまることで、目の前に広がる複雑な世界を単純かつ粗雑に二色に塗り分けることが可能となる。SNSは、同志ばかりを周辺に集めることにより、想像力を動員して複雑な現実とほどよい距離をとる労苦から狂信者を解放することになったのである。SNSが社会にもたらしたのは、一種の野蛮であったと言うことができる。

 公共の空間において表明された言論の価値は、この言論において、どの程度まで反対意見が考慮され、反対意見の持ち主を説得する努力が認められるかによって決まる。合意形成を目標として公表されたものだけが、価値ある言論である。完全に正しい意見など、この世にあるはずがない以上、自分の意見が絶対に正しいことを前提として、信じたいものだけを信じ、意見を異にする他人を非難するだけの言論は、単なるノイズとして斥けられるべきであると私は考えている。「偽ニュース」というのは、信じたいものだけを信じる狂信者が産み出し、流通させているものである。したがって、「偽ニュース」を駆除するもっとも効果的な方法は、事実をチェックすることではなく、むしろ、言論空間のノイズを断固として排除し、狂信者の言葉に耳を貸さないことであるように思われるのである。

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