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世界の悪意を感じるとき

 どこで何を見ても面白くないように感じられることがある。あるいは、視界に入るものすべてが腹立たしく思われることがある。街を歩いているとき、何かに気づくたびに、心の中でこれに悪態をつく。このような経験は、誰にでもあるに違いない。そして、このようなとき、私たちは、世界全体を憎悪していると言うことができる。

 世界を憎悪するとき、私は、新しい経験を欲しない。新しく到来するものはすべて、私を不快にさせ、私を攻撃するものだからである。

 私が世界を悪意あるものとして認識するかぎり、そして、新しいものとの出会いを忌避するかぎり、私の生活は、何らかの意味における「引きこもり」とならざるをえない。あらゆるものの到来を遮断することにより、新しいこと、予期せざることを目にしたり耳にしたりする苦痛を免れられるからである。

 たしかに、世界に対する憎悪を心に抱えている者にとり、新しいものは、心を波立たせるものであり、是非とも経験したくないものである。だから、引きこもりは、新聞も読まず、本も読まず、テレビも見ない。まして、知り合いの消息など、最新の注意を払って耳に届かぬよう工夫するはずである。

世界を憎悪するのは、自分を正当化する必要があるから

 私は、新しいものを恐れる。つまり、私は、本当の意味における経験を忌避し、世界に対し心を閉ざす。しかし、それは、世界の悪意のせいであるというよりも、むしろ、私がみずからの現状を正当化する必要にもとづくものである。私は、新しいものを経験することにより、自分の生活を支える信念や自己認識の妥当性に疑問符がつき、これが揺るがせられることを怖れているのである。

 そして、自分が妥当であると信じてきたもの、その信念の妥当性を前提として生活が組み立てられてきたもの、つまり、自分の生存を支えてきたものが揺らぐとき、私は、これに必死で抵抗する。これが自己正当化である。しかし、私が自己正当化を必要とするのは、私が自分自身を実体化し疎外しているからに他ならない。自己正当化とは、私がみずからをモノとして扱い、自由を失っているとき、したがって、みずからに対する信頼を失っているときに要求されるものであると言うことができる。

 新しいものに身を開き、世界に対する憎悪や恐怖を解消し、自分と世界の関係を正常化するために最初になすべきことは、私の本当の姿であると信じてきたものが、本当は実体化された私、モノとしての私、自分の体裁を取り繕うための「仮面」にすぎないという事実に気づくことであろう。言い換えるなら、自分の生活を支えてきた信念や自己認識を心の底では信じていない――あるいは、信じているという確信がない――ことを率直に認めるとき、私は、本当の意味において自由になるための最初の一歩を踏み出すことになるはずである。