AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:承認欲求

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エゴサーチには中毒性がある

 私は、1日のうちどこかで1回、「エゴサーチ」するのを習慣にしている。エゴサーチとは、自分の名前(やハンドルネームなど)を検索することである。

 これから述べるように、本当は、これはあまり好ましくない習慣であり、やめた方がよいとは思っている。しかし、パソコンの前に坐っている時間が長いせいか、どうしても「エゴサーチ」してしまう。エゴサーチには中毒性があり、タバコやアルコールと同じように、一度習慣になってしまうと、やめることが難しいようである。

 エゴサーチに中毒性が認められるのは、それが、きわめて歪んだ仕方であるとしても、「承認欲求」を満足させるものだからであろう。私の名前が検索の結果としてヒットするのは、誰かが私に注意を向け、私の名前を含む文章をネット上に投稿したからである。エゴサーチでヒットした件数は――自動的に収集された情報が機械的にコピーされたページでないかぎり――私に向けられた注意の量を反映するものとして受け止めることができる。エゴサーチを始めると、やめることが難しいのはそのためであるに違いない。

ネット上の評価の8割以上はネガティヴなもの

 ただ、エゴサーチにより私が目にする検索結果は、大抵の場合、決して好ましいものではない。というのも、私は、職業柄、本名で著書や論文を公表しているけれども、ネット上、特にSNS上で出会う私への言及の大半が批判または誹謗中傷によって占められており、多少なりとも好意的なものは、全体の1割にも満たないからである。だから、エゴサーチするたびに、そして、新しい検索結果を見つけるたびに、私は意気阻喪することになる。

 とはいえ、これは、私の場合が特別なのではなく、ネット上、特にSNS上に公表された誰かに関する評価の8割以上はネガティヴなものであると言われている。
NEWSポストセブン|ネットの書き込みは8割が悪口 エゴサーチやめるのが吉の声│
 エゴサーチを試みると、サイバースペースが恨み、怒り、妬みなどの悪意によって満たされた空間であることがよくわかる。

エゴサーチは、かゆい湿疹をかきむしるようなもの

 エゴサーチは、私の承認欲求を歪んだ仕方で満たしてくれるものである。だから、検索結果を表示するページが誹謗中傷や罵詈雑言によって埋め尽くされているとしても、そして、検索するたびに汚らしい誹謗中傷や罵詈雑言を必ず目にするとわかっていても、エゴサーチをやめることができない。そして、実際に、エゴサーチするたびに、私の心は少なからず傷つき、生活の質は間違いなく損なわれて行く。

 たしかに、ネットの世界には、みずからが「打たれ強い」ことを公言し自慢している人々がいる。このような人々がどのような気持ちで自分に対する誹謗中傷や罵詈雑言を眺めているのかわからないけれども、決して「打たれ強い」方ではない私などにとり、エゴサーチは一種の自傷行為である。

 不特定多数の目に触れるような仕方で作品を公表したり、発言したり、行動したりする人々にとり、エゴサーチの習慣は、一種の嗜癖である。かゆい湿疹のかゆみを解消するため、これをかきむしり、かきむしることで血が流れても、さらにかきむしり続け、これがさらなるかゆみを惹き起こす……、エゴサーチは、これに似た悪循環を私たちの心の中に産み出しているように思われるのである。

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After a long tiring day

 ずいぶん前から、私には、ある夢がある。それは、ある朝、目が覚めたとき、その日にしなければならない用事が何もなく、「さあて、今日は何をしようかな?」と心の中で――口に出してもかまわないのだが――つぶやきながら床を出て、ゆっくり朝食を摂りながらその日の予定を決める、というものである。

 もちろん、現実には、そのような朝が訪れる可能性は低い。私に限らず、多くの人々が、ひとりでは担いきれないほど大量の仕事を抱えており、目が覚めたときには、その日1日の予定がすでに埋まっているばかりではなく、翌日も翌々日も、すべての時間を「しなければならないこと」の処理に使わなければならないからである。

 だから、手帳に何も予定が記されていないばかりではなく、そもそも、しなければならないことが何もない状態で――ことによると、鳥のさえずりで――目覚めるなどというのは、荒唐無稽な夢物語なのかも知れないが、それでも、自由な時間を少しでも確保したいとつねに考え、時間に余裕ができることを基準に生活を組み立ててきた私のような人間にとっては、「さあて、今日は何をしようかな?」とつぶやくことで始まる1日が遠い目標であることに変わりはない。

 もちろん、私のこの夢または目標は、次のような批判を避けることができない。「人間は社会的な生き物であり、その価値は、どのくらい他人から必要とされているかによって決まる。『さあて、今日は何をしようかな?』とつぶやきながら床を出る、などというのは、社会から必要とされていない証拠であり、嘆かわしい生き方以外の何ものでもない、云々。」

 私は、どのくらい他人から必要とされているかによって人間の価値が決まるという考え方を好まない。たしかに、他人から頼られ必要とされることは、「生きがい」「やりがい」と呼ぶことのできるような気分を私の心の中に醸成する。それは、間違いのない事実である。しかし、このような「生きがい」「やりがい」に振り回され続けることで、自分がもともと立っていた場所がわからなくなる危険は決して小さくない。むしろ、他人の目に映った自分の姿を手がかりに自分の価値を探ることを続けていると、最終的には、「承認中毒」に陥ることを避けられないように思われる。実際、SNSの普及のせいで、「承認中毒」患者の数は、爆発的に増えているに違いない。したいことをするための自由な時間を確保することを私があえて第一目標として高く掲げているのには、時代のこのような傾向への異議申し立てという意味合いがある。

 ただ、自由な時間は、自律的な生活を保証するわけではない。時間がいくらあっても、何もしないということが可能だからである。実際、物理的な制約が少なくなるほど、人間は怠惰になるような気もする。それでも、することが完全に何もなくなったら、人間は、そのとき、すべきことをみずからの内部からひねり出すことになるはずである。そして、それは、周囲の目にはどれほど下らないと映ることであっても、それは、本人の生存にとって途方もなく価値のある活動であるに違いないが、それがどのような活動であるかは、「さあて、今日は何をしようかな?」とつぶやきながら床を出る体験をしてみないことにはわからない。(もちろん、アンドレ・ジイドが『法王庁の抜け穴』で描く「無償の行為」のように、それは、重大な違法行為であるかも知れない……。)


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