AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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日の丸

右翼の変質か

 今朝、次のような記事を読んだ。

日本第一党がアパホテルで結党大会 きょう26日午後(カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース

 また、これに関連して、次のような記事を見つけた。

日本第一党のアパホテルでの結党大会を紹介した神奈川新聞の記事に「目の敵にしてる感凄い」の声 | BuzzNews.JP

 私は、個別の政治的な問題について論評することはあまり好きではないが、これについては、簡単に書いておきたい。最近、「右翼界隈」で気になるニュースが多いからである。

 時間の順序を無視して気になった方から並べると、

    • 第1に「ニュース女子」の問題、
    • 第2にアパホテルの客室の本の問題、
    • 第3に森友学園の問題、そして、
    • 第4に、上の記事が取り上げた問題が特に目を惹く。

 これらのうち、第3の問題は、大手のメディアですでに報道されていることがすべて事実であるなら、正確には、右翼の問題というよりも、自称右翼による詐欺事件であり、政治とはさしあたり関係がない。

 また、第2の問題は、基本的には外国の問題であり、わが国とは関係がない。南京大虐殺に関し中国の主張するところが基本的にすべて虚偽であることは、今さら誰かに教えられなくても、日本人ならみな知っていることであるし、また、「ユダヤ人の陰謀」云々に真剣に言及している(と報道されている)「歴史書」など、最低限のリテラシーを具えた人間なら決して手をのばさないはずである。

 しかし、その他は、現在の社会の深刻な状況を反映するものと見なされるべきであるように思われる。

これは愛国者の団体なのか

 政治的な問題について発言する資格が自分にあるかどうか、簡単に確認する方法がある。すなわち、「私は愛国者です」と自分に向かって宣言することができる人は、政治的な問題について考えたり発言したりする資格がある。この場合、「愛国者」の定義は問題ではない。自国を大切に思う気持ちを持つ者、自国への愛情や敬意を動機として行動することができる者はすべて「愛国者」を名乗る資格があると私は考えている。

 そもそも、政治が決めなければならないことはただ1つ、「わが国をどうするか」ということに尽きる。したがって、日本に愛着がない人間は政治を語ってはならない。「私は日本を愛している」と胸を張って言えないような人間が政治に口出ししても、日本を好ましい方向へと変化させることは期待することができるはずがない。これは、誰にでも明らかなことであろう。カレーの嫌いな人間が経営するカレー専門店で美味いカレーに出会う可能性が低いのと同じことである。(「共産党」という政党がアメリカで非合法化されているのは、共産主義が国家という枠組を認めないからであり、現在の中国やかつてのソ連が典型的に示すように、本質的に帝国主義的、独裁的、権威主義的、反民主主義的だからである。)

 しかし、少なくとも私の見るところ、「在特会」の行動は、いかなる意味でも愛国的ではなかった。いや、それ以前に、政治的ですらなかった。政治とは、意見を異にする者たちとのあいだのオープンな議論によって、全員が受け容れられるような合意を時間をかけて形成して行くことがだからである。在日韓国・朝鮮人を街頭で動物的に誹謗中傷することは、本来の意味における政治に対する敵意の表現でしかない。

 在特会は、右翼でも保守でもなく、ルサンチマンと憎悪を古典的かつ安直な手段で煽るだけの狂信者の団体であり、彼らの主張することが事実に合致しているかどうかには関係なく、この意味においてすでに社会の脅威であった。この認識は、社会の広い範囲において共有されていると私は思う。だから、上に掲げた「神奈川新聞」の記事が反映する危機感は、ごく自然なものであり、多くの読者によって違和感なく受け容れられたはずである。

政治空間の溶解

 私は、自分が基本的には保守派であり、この意味では政治的に右寄りであると考えている。現在の自民党政権が進める政策を――細部については疑問や批判があるけれども――全体としては肯定的に評価している。憲法改正には賛成であるし、自衛隊は、当然、軍隊に格上げされねばならない。短期的なエネルギーの需要を考えるなら、原子力発電所を再稼働させないなど、考えられない。また、少なくとも義務教育の段階では、愛国心の涵養は大切な課題であろう。さらに、韓国、中国、アメリカなどへの対応も、おおむね支持しうるものである。(なお、私の同業者のあいだでは、現政権を基本的に支持する者は少数であり、これをあからさまに表明すると、珍獣扱いされかねないが、国民全体では、現政権の支持者は多数派であるに違いない。)

 それでも、在日外国人に対する憎悪を煽る団体が、決して国民の多数から支持されることはないとしても、弱火で燃え続けるコンロの火のように、いつまでも社会の片隅でくすぶり続けていることに、私はある種の気味悪さを覚える。(これは、一部の外国政府の支援を受けて活動する極左の各種団体の気味悪さに似ている。両者の表面的な主張のあいだには何の接点も認められないけれども、無責任に国民を煽って支持者を集めること、場合によっては暴力に訴えることなど、そのパターンには共通点するところが少なくない。両者は、イカとタコのような間柄だと考えることができる。)

 選挙によって作り出される勢力図を見るかぎり、今のところ、国民の大多数は、自民党よりも「さらに右」を望んではいないようであるけれども、将来はどうなるか、私にはよくわからない。「さらに右」の支持が国民のあいだに広がるとき、社会は、健全な議論のための政治空間をすべて失い、本当の危機に陥るに違いない。だから、私たちは一人ひとり、どれほど「きれいごと」であると言われようとも、中庸と節度を大切にして、公論の形成という旗を掲げ続けなければならないのだと思う。

Happily Entertained

人間が人間であるかぎり「不死」ということはありえない

 以前、次のような記事を書いた。


脳の老化と「寿命」の再定義 : アド・ホックな倫理学

「寿命がのびる」という表現が使われるときに一般に想定されているのは、身体の寿命がのびることである。もちろん、最近何十年かのあいだに身体の寿命がのびたのは、それ以前に生命を奪ってきた病気の多くについて、完全に撲滅されたり、完治を可能にするような治療法が見

 医学の進歩によって、身体の寿命は大幅にのびた。しかし、脳の方の寿命は、身体ほどにはのびていない。つまり、脳は身体とくらべて短命なのである。しかし、この不均衡を是正しないかぎり、いくら寿命がのびても、社会に活力が与えられることはないであろう……、上の記事には、このようなことを書いた。

 ところで、現在の医学の範囲では、すでに次のようなことが明らかになっている。すなわち、人間の寿命には遺伝子上の明確な限界があり、死なない人間というものはありえないことが確認されているのである。この知識に間違いがないとするなら、人間は必ず死ぬ。また、人間が死ぬ以上、そこには必ず何らかの原因があることになる。

 21世紀前半の現在、日本人の死因は、全世代の合計では、ガンが第1位であり、心疾患が第2位である。ガンが第1位を占めているのは、かつて上位を占めていた疾患が克服され、死に直結する病気ではなくなったからであり、それによって、寿命が延びたからである。(つまり、以前ならガンに罹る前に別の病気で死亡していたような人間が、現在では、相当な年齢まで長生きし、ガンに罹るようになったということである。)寿命がのびるととともに、高齢者が罹りやすい病気の患者数が増えるのは、当然のことである。

 しかしながら、今から100年後には、ガンや心疾患の完全な治療法が見つかり、死因の上位から姿を消しているかも知れない。それでは、100年後、何が死因の第1位を占めているのであろうか。

100年後の死因第1位は医学とは関係ないかも知れない

 たとえば、100年後の死因において第1位を占めるのは、「交通事故」であるかも知れない。交通事故で即死するくらいでないと、人間はなかなか死ななくなっているかも知れないからである。あるいは、「自殺」が第1位になっているかも知れない。あるいは、核兵器を用いた大量殺戮でおびただしい人命が失われれば、それが死因の第1位になる可能性もある。

 そして、交通事故、自殺、戦災などで一瞬のうちに生命を奪われるという事態が死亡の原因として上位を占めるようになると、社会と医学との関係もまた、おのずから変化するに違いない。

 人類が始まってから現在まで、死因の第1位がつねに同じであったわけではない。ただ、死因の上位に何が来るとしても、それらのすべてに共通する点が1つだけあった。それは、死亡の原因となるような何ものかは、つねに治療の対象であり、医学が克服すべき課題であったという点である。死因の第1であったものは、治療法が見つかるとともに病として治療され、克服され、そして、死因の上位から姿を消す。時間の経過による死因の交替は、病気に対する医学の勝利と寿命の延長の結果であり、天然痘、結核、コレラなどは、医学のおかげで私たちにとって縁遠い病気となったのである。

 しかし、交通事故が死因の第1になるとき、医学にはもはや出番がない。交通事故は病気ではないから、交通事故を「治療」するわけには行かない。死者を蘇らせることが不可能である以上、死因第1位に関して医療にできるのは、一命をとりとめた瀕死の負傷者に施す救命医療くらいであろう。

 多くの人の生命を奪うものが医学の範囲の外にあるとき、死因の第1にあるものをその座から追い落とす役割を担うのは、さしあたり、医学ではなく政治となる。いや、100年後の医学は、その範囲を政治へと広げ、「政治=医学」「行政=医学」「経済=医学」のような、人命を危険から守るための社会科学のような研究分野が作り上げられているかも知れない。

 もちろん、死因の1位を交替させることばかりが医学の使命ではないから、狭い意味における医学が停滞するということは決してないはずであるけれども、それでも、万人に死をもたらす可能性のある事柄が治療の対象ではなくなるなら、医療と私たちの関係は、おのずから変化するはずである。

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