小町通

 女性の社会進出、正確に言うなら、女性が自活することができるだけのカネを稼ぐことは、日本文化の将来にとり、きわめて重要である。実現可能性をあえて完全に無視して言うなら、自分で自分の生活費を稼ぐことなく、いわば「専業主婦」として暮らしている女性をすべて家庭から追い出し、フルタイムの賃労働に従事させることが必要である。その際、賃労働に従事することと引き換えに、介護や育児に関し特別に手厚い支援を与え、さらに、場合によっては、たとえば「女性は所得税一律半額」のような減免措置を講じることは、働きたくない女性が家庭にとどまる口実を奪うために当然必要となるであろう。

 なぜ女性が外に出て働くことがそれほど重要であるのか。

 現代の日本の文化のかなりの部分は、専業主婦によって支えられている。いや、文化に限らず、個人消費のかなりの部分は、専業主婦が何かに対価を支払うことによって作り出されていると言うことができる。ところで、専業主婦というのは、みずからは生活費を稼がず、配偶者の収入に依存する存在である。したがって、個人消費が専業主婦の支出に多くを負っていることは、カネの使いみちが、生活を自力では維持することができない人間によって決められていることを意味する。

 これは、深刻に受け止められねばならない事実である。そもそも、労働の対価として報酬を受け取る者でなければ、カネの本当の価値を理解し、カネを払って購うべきものを厳しく吟味することなどできるはずがない。他人が稼いだカネによって購われるものに厳しい吟味が届かない点については、専業主婦も税金を使う官僚も同じである。税金は、官僚によって無駄に使われ、同じように、配偶者がつらい労働によって家庭へと引き寄せた所得は、専業主婦によって散財される運命にある。当然、専業主婦の支出が文化へと向かうとき、購われるものは不当に高く評価され、文化を誤った方向へと導く危険がある。実際、少なくとも敗戦後、専業主婦が家計を管理するようになってから、演劇、音楽、料理、ファッション、観光など、広い意味における文化の多くの領域における生産活動は、とどまることなく堕落し続けているように見える。専業主婦、つまり、労働の厳しさに裏づられた厳しい眼を持たない客を主な相手とするようになり、高い水準を目指す必要がなくなったからからである。文化の貧困が専業主婦によって惹き起こされたと私が考える理由である。日本の文化が現在でもある程度の水準を維持しているとするなら、それは、文化的活動に携わるプロの覚悟と、戦前に積み上げられた遺産のおかげであると言ってよい。

 専業主婦に小遣いだけを与えておくわけには行かないとするなら、文化の豊かさを取り戻すために残された選択肢はただ一つ、それは、専業主婦を家庭から追い出し、労働によって鑑識眼を身につけさせる以外にはない。これは、一人ひとりの女性の短期的な幸福を必ずしも約束するものではないけれども、長期的に見るなら、これにより、日本人の福祉は間違いなく促進されると私はひそかに考えている。