Mirror Time

 『断捨離』という表題の本を私が初めて目にしたのは、2010年の初めのことである。


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 その年の終わりごろには、『人生がときめく片づけの魔法』という――発音することにいくらか気恥ずかしさを覚えるような――タイトルの本の広告を電車で見かけるようになった。


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 よく知られているように、『断捨離』も『人生がときめく……』も、片づけの方法を案内する本であり、自己啓発書でもある。内容はたがいにいくらか異なっているけれども、自分自身にとって必要なモノを手もとに残してあとは処分し、少数の必要なモノを適切な仕方で自分の周囲に配置することを求める点、そして、片づけによって人生を好ましい方向へと変えることができることを主張する点では、両方とも同じである。違うのは、捨てるかどうかを決めるにあたり基準とすべきものの名前だけである。

 これら2冊ばかりではなく、片づけによって人生を変えることができることを主張する自己啓発書は、私の知るかぎりではすべて、自分の身の回りにあるものを処分するかどうかを決める基準が一人ひとりのうちにあることを自明の前提とする。すなわち、これらの本によれば、私が手もとに残してよいのは、自分の人生に必要なもの、「心がときめく」ものだけであり、この条件を満たさないものは、合理的かつ機械的な手順に従って処分しなければならず、処分することにより、人生が好ましい方向へと変化して行くことになる。片づけというのは、目づまりを起こした排水管を高圧洗浄できれいにするようなものと見なされていることになる。

 たしかに、私たち一人ひとりには、かけがえのない個性がある。たがいにどれほど似ているとしても、私には、あなたになることはできないし、あなたもまた、私になることは不可能である。当然、私が身の回りに置きたいと思うものと、あなたが身の回りに置きたいと思うものが完全に同じであるはずはない。

 私たちは、普段の生活において、他人と共存しなければならず、そのために、自分と他人の小さな区別をあえて見過ごし、自分に対して小さな不誠実を重ねながら生きている。しかし、自分の生活空間を快適な仕方で組織する――つまり「片づける」――ことを望むのなら、自分のあり方を反省し、自分自身に対して徹底的に誠実になることが必要であるに違いない。このかぎりにおいて、片づけは、自分自身に立ち返ること、本来の自分になることである。

 しかしながら、片づけに関するかぎり、事柄はそれほど単純ではない。というのも、ここには、次のような問題が認められるからである。

 以前に別の記事で少し述べたように、


片づけの社会性 「モノをなくさないこと」と「整理整頓」のあいだ : アド・ホックな倫理学

モノをなくさないための3つの方法 なくしたモノを自宅や職場で探すために、私たちは、膨大な時間を使っている。数日前に読んだある記事によれば、すべての人間を平均すると、人生全体の6ヶ月は、なくしたモノを探すために使われているらしい。なくしたモノが気になって眠れ

自分自身に対して完全に誠実になったからと言って、部屋がきれいに片づくとはかぎらない。というのも、私たちが「きれいに片づいた部屋」(「何もない部屋」ではない)と見なすものは、自分自身に対する誠実の帰結であるとはかぎらず、むしろ、それは、他人に見せたときに「きれい」として受け容れられるはずの状態を目指して試みられた整理整頓の結果にすぎないのが普通である。私の私らしさは、それ自体としてすでに社会的なものであるから、片づけというのは、つねに、そこにおいて本来なら表現されるべき「私自身」なるものを多少なりとも裏切るかたちでしか実現されえないものであり、このかぎりにおいて、一種の不誠実を避けられないのである。

 ほぼすべての人間にとり、本当の自分自身というのは、たしかにかぎりなく個性的ではあるけれども、同時に、それは、直視に堪えない弱弱しい存在であり、自分の身の回りにあるものを処分するかどうか、適切に決める力もなく、必要なモノを見の回りに適切に配置するための秩序をみずから産み出す力もない。私たちは、自分自身に立ち返り、自分らしい生活を実現するために片づけを実行する。それにもかかわらず、「きれい」に関しすでに社会において通用している支配的な標準に寄生しなければ、片づけを完結させることができない。片づけを進めるとともに、私たちは、社会によって固有性を剥奪された自分自身、他人のまなざしを借りることなしには身の回りの整理すらできない自分自身を見出すことになるのである。