AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:最適化

Taxi Driver

老人との共生は社会を変質させる

 人間が長生きになるとともに、人口が減少してくると、当然、人口全体に占める老人の割合が相対的に増える。もちろん、老人がいつまでも若々しければ、そこには何の問題もない。(いや、老人が元気すぎることに何の問題もないわけではないが、それはまた別の話である。)しかし、人間は、年齢を重ねるとともに、気力、体力ともに少しずつ衰えることを避けられない。そして、そのせいで、社会は、さまざまな問題を抱えることになる。

 以前、次のような記事を書いた。


老人の行動は一切制限してはならないのか 〈体験的雑談〉 : アド・ホックな倫理学

私の自宅から最寄り駅までは、1キロ強の距離がある。私は、電車通学を始めた中学生のときから、今の家に住んでいるあいだはずっと、最寄り駅に行くのにバスを使うのを習慣としていた。しかし、最近は、バスにはできるかぎり乗らず、駅まで歩くようにしている。健康のためで


 この記事で書いたのは、ある程度以上老人の数が増えると、社会全体のシステムが老人の行動に最適化されてしまうこと、したがって、老人専用の空間というものには、下の年齢の者たちを寄せつけない独特の雰囲気があること、高齢者による自動車事故が多発することで、公道の秩序が老人に最適化されるおそれがあることなどであった。

 老人に最適化されているのは、物理的な空間の秩序ばかりではない。老人が公共の空間に氾濫し、既存の秩序を動物的な仕方で変質させて行くよりもはるか以前に、政治的な意思決定の秩序は、老人によって完全に乗っ取られている。これは、一昨年(2015年)5月に行われたいわゆる「大阪都構想」をめぐる住民投票の結果によって誰の目にも明らかになったことであろう。老人の投票行動が政治的な意思決定に強い影響を与えるというよりも、むしろ、「老人的なもの」が政治を飲み込み、変質させてしまったと考えるべきである。

シルバー民主主義|新書|中央公論新社

「心身の衰弱」という暴君が人間的な社会を破壊する

 単なる既得権益、単なるイデオロギーが問題であるなら、これを克服する道はいくらでもある。モラル、道理、常識に訴えて社会から不公正を排除することもできるであろう。あるいは、法の力によってこれをねじ伏せてもよい。しかし、「老人的なもの」を斥けることは容易ではない。なぜなら、社会における老人に固有の行動や意思決定は、主に心身の衰弱という物理的、生理的な事情を原因とするものだからである。心身の衰弱は、すべての老人に共通の現象であるけれども、老人の「せいで」発生するものではないことは確かである。そして、心身の衰弱が老人の責任ではない以上、老人を説得したり、特定の行動を法律によって禁止したりしても、心身の衰弱がこれによって解消されるわけではない。(そもそも、心身の衰弱は、民主主義の基盤となる責任ある主体そのものを溶解し動物化し、政治というものを単なる調教の実践にすぎぬものに変えてしまう。)

 心身の衰弱が動機であり根拠であり理由であるかぎり、その行動に異議を唱えることはもはや誰にもできない。空間の秩序と政治の秩序が老人的なものによって侵蝕され、すべてのものが「心身の衰弱」という――あらゆる責任を免れた――一切の交渉を許さぬ暴君に屈服して行くとともに、社会における本当に人間的な領域、民主主義のための領域もまた縮小せざるをえないのであり、私たちの社会は、誰も責任をとることができない物理的、生理的な事情によってその秩序が歪められる危険にさらされているのである。この危険は、民主主義社会にとって重大なリスク、しかも、人類の歴史において民主主義が初めて抱えるリスクであると言うことができる。

Stop The Bus

 

 私の自宅から最寄り駅までは、1キロ強の距離がある。

 私は、電車通学を始めた中学生のときから、今の家に住んでいるあいだはずっと、最寄り駅に行くのにバスを使うのを習慣としていた。

 しかし、最近は、バスにはできるかぎり乗らず、駅まで歩くようにしている。

 健康のためではない。

 この数年、バスの乗客が老人だらけになり、居心地が悪くなったせいである。

 実際、通勤のピークの時間帯を除くと、どこに行くのか知らないけれども、乗客の半分以上は老人になっている。無料パスがあるせいなのかも知れない。

 

Andante

 老人が多い空間は、老人以外の人間には居心地の悪いものとなることを避けられない。

 老人は、動きが緩慢だったり、周囲に対する目配りが不十分だったり、変化への対応が柔軟ではなかったりするからであり、さらに、老人たちを迎え入れるハード(設備)やソフト(人間)が主な「客層」である老人の行動に最適化されてしまうからである。

 

 「若い女性をターゲットとする文房具屋」「サラリーマンをターゲットとするラーメン屋」などがあることは誰でも知っている。

 また、これらの店では、主な客層の気にいるよう、さまざまな工夫が施され、主な客層以外への配慮に乏しいのが普通である。

 ただ、このような店は、基本的には、特定の趣味や嗜好を持つ客に最適化されているにすぎない。

 所得や生活環境に多少の共通点は認められるとしても、客の集団は、決して均質的ではない。

 何かを買うつもりがあるのなら、私が若い女性向けの雑貨屋に入っても、小さな違和感を覚えるだけである。

 

20120929_GGFCVB_0972

 これに対し、老人をターゲットとする乗り物や商店は、趣味や嗜好というよりも、心身の衰弱を原因とする老人固有の行動パターンに最適化される。

 そして、おそらくそのせいなのであろう、その空間は、不気味な均質性を特徴とすることが多いように思われる。

 これが、老人以外の人間には居心地が悪い空間になる原因である。

 老人とは言えない年齢の人間はすべて、精神衛生上、老人が集まる場所からは黙って立ち去るのが望ましいのであろう。

 

 老人の行動に最適化された公共の空間が「老人にやさしい」場所となることは確かである。

 しかし、老人にとって快適な場所は、「老人専用」の場所となってしまう可能性が高いのもまた事実である。

 昨日、次の記事を見つけた。

 

【高齢者交通事故】高齢ドライバーに「免許返納せよ」大論争 ネットで展開される極論

 

 最近、老人が自動車を運転して起こす事故が非常に多い。

 10年くらい前から数が増え始め、今では、少なくとも週に1度くらいは新聞で見かけるようになった。

 実際、上の記事にあるように、自動車事故全体の数が減少しつつあるときに、自動車事故の加害者全体に占める老人の割合は増えている。

 現状を放置するかぎり、この割合は、さらに増えるに違いない。

 将来、「完全自動運転」の技術が実用化されるなら、そのときには、事情が変化するであろうが、少なくとも今は、「免許を取り上げることは老人の行動を制限する」という理由により、公道上での老人の運転に制約を課さないと、反対に、老人の危険な運転に合わせて人間の行動の方が最適化され、不快な歪みを公共の空間のマナーに産み出し、本来なら不要なはずのコストを私たちに強いるようになる。

 


高齢運転者標識を活用しましょう!|警察庁

(null)



 

 運転免許に関連する制度を一切変更しない場合、老人の危険な運転から身を護るため、周囲に目配りしたり、ガードレールの内側を歩いたりすることに注意を払わなければならなくなる。

 何といっても、自動車を運転する老人というのは、枯葉マーク(=高齢運転者標識)を自動車に貼りつけ、自分の行動パターンが周囲を攪乱する可能性を認めることすら嫌がる存在である。

 外部からの強制力によって老人の行動を変えさせないかぎり、わが国の公道は、リスクの高い空間になることを避けられないはずである。

↑このページのトップヘ