AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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Japanese sweet / Hydrangea 1

 1週間に1日か2日、平日の午前中で仕事が終わりになることがある。そのようなときは、天気がよければ、職場から自宅まで歩いて帰る。鉄道の駅にすると5個――「5区間」と言うべきか――分だから、大した距離ではない。私は、必ずしも足が速くはないが、それでも、1時間弱で自宅に辿りつく。ただし、それは、まったく寄り道しなければ、の話である。

 職場から自宅まで歩いて帰る場合、その途中に、小さな駅の周辺に広がる小さな商店街がいくつかある。このような商店街にある飲食店で昼食をとったり、喫茶店に入ってコーヒーを飲んだりしていると、相当な時間がかかってしまう。自宅の近所は、幹線道路に近いせいか、スーパーマーケットが1軒あるだけで、まともな商店街はない。だから、このような商店街を通り抜けるとき、洒落たパン屋、洒落た喫茶店などを見かけると、どうしても立ち止まってしまうのである。

東京の和菓子屋は減り続けている

 特に、歩いて帰るときに必ず立ち寄って買いものすることにしているのが、ある商店街に店を出している個人経営の和菓子屋である。私は、酒を飲まない分、甘いものをよく食べる。特に、和菓子は大好物である。

 信頼できる統計はないようであるけれども、東京では、和菓子屋、特に、個人が経営する路面店の和菓子屋は、この20年くらいのあいだに、その数をずいぶん減らしたように見える。都心やターミナル駅の周辺なら話は別なのであろうが、私が暮らしている杉並区などでは、個人経営の和菓子屋は、もはや数えるほどしか残っていない。

 私が小学生のころ、自宅の最寄り駅の近くには和菓子屋が4軒あり、自宅の近くにも2軒あったのだが、今は、駅前に1軒が残るだけである。同じように、あんみつや汁粉、ぜんざいなどを出す甘味処も、なぜか決して多くはない。(私の知るかぎり、甘味処の店内は「年寄りばかり」であることが多く、そのせいで忌避されているのかも知れない。)

 これに対し、京都には和菓子屋が非常に多い。下のデータによれば、都道府県別では、和菓子屋が全国でもっとも多いのは、やはり京都府のようである。

第57回【全国ランキング】

 京都には、全国的に名を知られる有名店が少なくないけれども、そればかりではなく、街を歩いていると、個人経営の和菓子屋をよく見かける。人口当たりの和菓子屋の数は、東京の10倍くらいあるような気がする。京都には、それだけ和菓子の需要があるということなのであろう。和菓子の好きな私のような者にとっては、うらやましい状況である。

 なお、京都の和菓子屋の新作を写真で紹介する下のようなブログもある。私は、毎日、これを眺めてよだれをたらしている。

きょうの『和菓子の玉手箱』

和菓子は非日常の食べものになりつつあるのか

 しかし、和菓子屋の数が需要と供給の関係を反映するものであるなら、東京から和菓子屋が消えて行くのは、和菓子の需要が少ないからであると考えねばならない。また、事実はそのとおりなのであろう。

 たしかに、新宿、渋谷、銀座などの繁華街、特にデパ地下には、相当な数の和菓子屋が出店している。しかし、このような場所に出店しているのは、多くは京都に本店があり、全国にいくつもの支店を持つ有名店であり、販売されているのは、(私の勝手な思い込みでないとするなら、)手土産として訪問先に持参するためのものか、あるいは、自宅に来た客に出すためのものか、あるいは、茶会で出すためのものかのいずれかである。つまり、日常生活において和菓子を自分で購い、自分で消費するなどということは、最初から想定されていないように見えるのである。

 どら焼き、羊羹、最中、まんじゅう、たい焼きなどばかりではなく、いわゆる「上生菓子」に分類されるようなものを含め、和菓子は、決して非日常の特殊な食べものではなかったはずである。少なくとも、私自身のこれまでの食生活において、和菓子について、これを非日常的なものと受け止めたことはなかった。また、和菓子が本質的に非日常的なものであるなら、上生菓子を製造、販売する和菓子屋が地域にあれほどたくさんあったはずはないように思われるのである。

 このような点を考慮するなら、個人経営の和菓子屋が地域から姿を消したのは、和菓子全体の需要が減少したというよりも、なぜかよくわからない理由によって和菓子が非日常に属する小道具と見なされるようになったからであると考えるのが自然である。和菓子というのは、日本の食文化の繊細な側面を代表する食品であり、日常において消費されることで、日本らしい繊細な「味わい」を学ぶよすがとなるものであり、このかぎりにおいて、日本の食文化の不可欠の構成要素である。和菓子が日常から姿を消しつつあるとするなら、それは、日本人の食生活の野蛮化と幼稚化を、そして、日本の食文化の堕落を意味しているように私には思われるのである。


Waste separation wall in Cologne/Germany

ゴミの分別は大雑把な方がラクである

 私は、東京都杉並区に住んでいる。杉並区では、ゴミの収集は、「可燃」「不燃」「古紙・ペットボトル」「びん・缶・プラスチック製容器包装」の4種類に分けて収集される。可燃ゴミが週に2回、不燃ゴミが月に2回、あとはそれぞれ週に1回である。ただし、杉並区の場合、これらとは別に、資源としてリサイクルされるような金属等を含む製品については、区内の指定された回収場所に自分で持って行かなければならない。

 以前に何年か住んでいたことのある西日本の某政令指定都市では、分別の指定がもっと細かく、非常に苦労した。東京は、全国の中では、分別が大雑把な方であるのかも知れない。次の本によれば、ゴミを34種類に分別することを住民に求めている自治体もあるようである。(無精な私は、この本を読んだとき、このような自治体の住民ではないことの幸運を実感した。)

ゴミ分別の異常な世界 リサイクル社会の幻想

 狭いアパートに独り暮らしの場合、ゴミの分別の指定が細かいというのは、あまりありがたくない。ゴミとして出す予定のものを分別し、部屋の中に置いておかなければならず、これがかなりの場所を占領するからである。ゴミ袋に入れて集積所に出すのではなく、ヨーロッパの一部の国のように、ゴミの種類ごとに分かれた大きなダストボックスが集積所に常時設置されていれば、ゴミを家の中で管理する必要がない分、分別がもっと楽になるのに、といつも思っていた。(安全面や衛生面で予想される問題があるのであろう。)

分別の徹底と「開封調査」がまず惹き起こすのは「コスト」の問題

 実際、誰が考えてもわかるように、ゴミの分別の指定が細かくなれば、それだけ、ゴミの分別のために住民一人ひとりが負担しなければならないコストは増大する。

 この場合の「コスト」が意味するのは、カネばかりではない。むしろ、ゴミの分別には、体力、手間、時間、そして、収集日を待つゴミが住居の内部で占有するスペースが必要であり、これらがゴミの分別にとって避けることのできないコストとなる。

 もちろん、暇とエネルギーを持て余した「意識が高い」分別マニアにとっては、ゴミの分別は、いかなる意味でも「コスト」ではないかも知れないが、他にもなすべきことがたくさんあり、しかも、ゴミの分別の生活における優先順位が決して高くはない人間、つまり普通の人間にとっては、ゴミの細かい分別はコスト以外の何ものでもないように思われる。

 多くの自治体は、住民に対し、ゴミの分別を徹底するよう平然と要求するし、さらに、いくつかの自治体では、ゴミの分別が正しく行われているかどうか、「開封調査」なるものが行われているようである。(ゴミの分別は、それ自体としては法的な義務ではないから、自治体は、開封調査を実施し、分別に協力しない者を「晒し者」にすることで、分別を徹底させようとしているわけである。)

 また、「開封調査」を行うと公表してはいなくても、ゴミを回収したあと、最終的に処分する前に、全部のビニール袋を開けて中身を目視で点検し、分別し直す自治体は少なくないようである。私が住んでいたことのある西日本の某政令指定都市が発行するパンフレットには、回収したゴミ袋をすべて開封し、内容物をベルトコンベアーで移動させながら、防護服のようなものを身につけた職員が手作業でゴミを分別し直している写真が掲載されており、私は、この写真を見て、背筋が凍る思いがした。

 たしかに、他人事として考えるなら、ゴミの分別が好ましくないはずはない。ただ、分別の意義は、無条件の絶対のものであるはずはなく、あくまでも「分別のコスト」との関係で決まるはずである。ゴミの分別を徹底するよう住民に要求することは、分別のコストを負担するよう住民に要求するのと同じことである。

 自治体は、分別の徹底を求めるのなら、分別のメリットを住民に明示すべきであろう。それは、当然、「環境にやさしい」とか「資源のリサイクルになる」などといった抽象的なものであってはならない。資源のリサイクルへの貢献を名目として家庭から排出するゴミを自主的に分別することは、住民にとっては何のメリットもない単なる「勤労奉仕」だからである。

 ゴミの分別を徹底させよることを望むのなら、目に見える形の費用対効果(住民税が安くなるとか、開封調査に自発的に応じるたびに100円分の金券がもらえるとか、首長が表彰するとか)――つまり「餌」――を提示することは、自治体の義務である。そして、この義務を前提として、ゴミの厳密な分別のコストを住民に対し公然と要求する権利が初めて発生すると考えるべきである。

 ゴミの分別の徹底と「開封調査」について、憲法違反や違法の疑いを投げかける人がいる。私は、このような人々の声が間違いであるとは思わない。(というよりも、この点に関し、今は判断を控える。)

 たしかに、上に述べたように、「開封調査」は、違反者を「晒し者」にすることで住民を威嚇し、自治体の意向に従わせようとするものであるから、このような措置に何らかの問題を指摘することはいくらでも可能であるには違いない。ただ、ある自治体に住み、その地域の暮らしの当事者であるかぎり、憲法で認められた権利の一部を自発的に放棄したり制限したりすることはつねにありうる。だから、ゴミの分別と「開封調査」に関するかぎり、法律上の問題があるとしても、それは、ゴミの分別を要求したり、「開封調査」を実施したりすることの意義をただちに損なうわけではない。むしろ、根本的なのは、ゴミの分別が住民に強いるコストの問題である。ゴミの分別のコストばかりを要求され、それに対する見返りが何もないから、ゴミの分別が徹底されないのである。分別のコストを自発的に負いたくなるような「餌」が提示されないかぎり、ゴミの分別が徹底されることはないに違いない。


深川図書館

 蔵書のダウンサイジングを計画するとき、誰の目の前にも、1つのアイディア(または誘惑)が必ず姿を現すはずである。それは、「図書館にある本は処分し、必要なときに図書館から借りることにしよう」というアイディア(または誘惑)である。

 たしかに、これは、魅力的なアイディアであるように見える。図書館に所蔵されている本を必要に応じて借りることにより、自宅の貴重なスペースを解放することが可能となるからである。

 実際、どれほど頻繁に手にとる本でも、実際にこれを占有している正味の時間は決して多くはないのが普通である。だから、ある本が必要になったら、図書館にその都度足を運べば十分であり、図書館にあるのと同じ本に自宅の貴重なスペースを占領させておくのはもったいないと考える者がいても不思議ではない。

 しかし、私は、これは無理なアイディアであると考えている。理由は2つある。

 まず、さしあたり現実を無視し、理想だけを確認するなら、図書館が所蔵する本というのは、批判的な精神を具えた市民の育成を目的として税金によって購われたものであり、社会の共有財産である。したがって、ある本が必要になったとき、これにいつでも自由にアクセスすることができるわけではない。私の住む杉並区の場合、区立図書館の蔵書の借り出し可能な期間は2週間である。また、全国の市区町村にある公共図書館の大半において、貸し出し期間は2週間と定められているはずである。しかし、このことは、私が必要とする本を求めて図書館に行ったとき、この本が手もとに届くまでに最大2週間待たなければならないことを意味する。この2週間の待機に耐えられるかどうかは、本の性質や緊急性の程度によってまちまちであろうが、大人しく待つことができなければ、買うしかない。あるいは、別の図書館で捜すしかない。前者の場合、カネとスペースが必要になるし、後者の場合は、体力と手間がかかることになる。私の自宅からもっとも近い図書館は、徒歩3分のところにある。これは、公共図書館の多い東京の中でも、特別に恵まれた状況であるに違いない。しかし、わずか3分であるとしても、図書館に所蔵されている本を見るためには、最低限の身なりを整え、靴を履き、玄関から出て公道を歩かなければならない。椅子に坐ったまま、腕を伸ばせば届くところに本があるというのと、その手間や時間はまったく異なるのである。実際、私は、購読していない雑誌のバックナンバーや専門的な事典類を調べるために図書館に行くことはあるが、それは、平均すると月に1回程度である。本の購入にあたり、近所の図書館に所蔵されているかどうかを考慮することはない。

 さらに、図書館は、私が自宅に本を集める場合とは異なる方針にもとづいて収書している。すなわち、自宅の蔵書は、私だけの必要に応じて集められた本から成り立っているのに対し、図書館の蔵書は、可能的な利用者全員の利益を考慮して選ばれたものである。本来、私の手もとには、私自身の関心を尺度として、私にとって相対的に価値ある本が集められているはずである。しかし、図書館に所蔵されている本を基準として「図書館にはないが必要な本」を手もとに残して行くと、「私にとって重要な本が私の手もとにある」という理想には遠い状態となる。これは、本の単なる寄せ集めであり、私自身の必要や関心と有機的に連関する蔵書ではない。

 図書館を利用することが悪いとは思わない。しかし、個人の蔵書が個人の蔵書として機能するためには、何よりもまず、私自身の関心を尺度として本が集められ、私にとって必要性の高いものが私の手もとにある状態になっていなければならない。図書館の蔵書で代用可能なのは、原則として、関心の周縁部分に位置を占める本――したがって、大抵の場合、1回アクセスすれば十分な本――にとどめるべきであるように思われるのである。


Koenji

 最近、都市としての東京の現状について、西よりも東の方が発展しており、東京の未来を映すのは東京の東の方、特に隅田川よりも東であるというような見解をときどき見かける。たとえば、私は、次の本でこれを見た。


東京どこに住む? 住所格差と人生格差 (朝日新書) : 速水健朗 : 本 : Amazon

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 この本の著者の速水健朗氏は、基本的に「東京の未来は東から」(?)派であり、次の本でも、同じ観点が前提となっている。

東京β: 更新され続ける都市の物語 (単行本) | 速水 健朗 |本 | 通販 | Amazon

 たしかに、この20年くらいのあいだに範囲を限るなら、東京全体のうち、変化が目立つのは東の方であり、また、観光客を集めるようなスポットも東の方に多い。しかし、このようなことが事実だからと言って、「これからの東京は東の方だ」という結論を導き出すことに、私は違和感を覚える。というのも、都市の発展の場合、人口が流入し、変化が活発に起こり、この変化が要請する新しいライフスタイルに合わせ(再開発に代表される)大規模なアップデートが進行しつつあるエリアがあるとしても、

    1. このようなエリアがその都市の「都市としての中心」となることを意味するわけではなく、また、
    2. このようなエリアにおいて認められる変化ないし発展がこのエリアを含む都市全体の変化ないし発展の方向を指し示しているわけでもない

からである。これは、東京23区の西の方で生まれ、東京23区の西の方で育ち、そして、現在でも東京23区の西の方に住み、40年以上にわたってこのエリアの空気を読んできた人間の実感でもある。成長、変化が活発なエリアが私たちの注意を惹くことは事実である。しかし、都市の都市らしさというのは、この大規模なアップデートが一段落したところから「成熟」という仕方で見えるようになるはずのものである。この意味において、東京の西の方、具体的には新宿区、中野区、杉並区、世田谷区、練馬区、そして、武蔵野市と三鷹市……、戦後に(基本的には住宅地として)大規模な開発が進行したこのエリアは、ようやく、単なる「巨大な村」の状態を脱し、本来の意味における都市へと変化し始めたのではないかと私は考えている。(もちろん、この範囲のすべてが成熟した都市になるわけではない。単なる貧寒な郊外へと転落する部分は少なくはないであろう。)

 都市が今この瞬間のライフスタイルに合わせてアップデートされて行くと、そこには、さしあたり、時間的な移ろいも歴史の積み重ねも認められないのっぺらぼうの街が出来上がる。おろしたてのバスタオルにシワもシミもほころびもほつれも認めることができないようなものである。しかし、大規模な開発または再開発が終わると、この街は、時間の経過とともに、住人の変化に合わせて小規模な手直しが繰り返し行われる。シワ、シミ、ほころび、ほつれがバスタオルを少しずつボロにして行き、さらに、必要に応じて試みられたつくろいの跡も目立つようになるのと同じである。その街には、本格的な歴史的建造物などないかも知れないが、しかし、その都度の必要に応じて、手持ちのリソースを使い回して住人の生活の必要に応える努力のあと、あるいは、環境になじむための住人の努力の跡があちこちに認められるようになる。たしかに、このような無数に繰り返されたミクロのレベルの手直しの積み重ねは、そのエリアに対し「中途半端に古ぼけた」雰囲気を与える。たとえば、西荻窪や浜田山は、そのような街の典型である。けれども、都市の都市たる所以は、若木のように力強く成長して行く姿にあるのではなく、必要に応じてつくろわれながら使われ続けている古ぼけたタオルのような姿にある。つまり、住人と街のあいだにおいて適応を目指して試みられた相互作用の痕跡こそ、都市の成熟と進化の証なのである。

 残念ながら、少なくとも私の知る範囲では、隅田川の東側、特に、アップデートが進行中のエリアには、このような仕方で人間化された街というものはまだ誕生していない。現在、本当の意味において都市化が始まろうとしているのは、むしろ、東京の西の方であるように私には見えるのである。

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