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 昨日、次のような記事を読んだ。

「自主避難」と「自己責任」 今村復興相発言「撤回」でも、くすぶる議論

 この数日のあいだ、東日本大震災の際に自主避難した人々の行動が「自己責任」によるものであるという旨の今村復興大臣の発言がマスメディアで繰り返し取り上げられている。この発言に問題を認めるかどうかは、立場によって異なるかも知れない。私自身は、この発言について、その内容に限定するなら、まったく問題がないとは思わないが、大騒ぎするほどのことでもないと考えている。

自分のだけの不幸にはひとりで耐えなければならない

 たしかに、指示されたわけでもなく、勧告されたわけでもなく、命令されたわけでもないのに、安全が脅かされていると感じてどこかへ「『自主』避難」したのであるとしても、そこに何らかの事情を想定することは不可能ではない(が、私自身には、具体的な事情はわからない)。だから、避難せざるをえなかったことについて「国の責任」を問い、「国の支援」を要求することは、「『自主』避難」した人々が国民を納得させられるのなら、このかぎりにおいて、決して不当なことではないと思う。

 ただ、上のような報道を眺めていて考えることが1つある。それは、個人的な不幸と集団的な不幸のあいだ、あるいは、「自分だけの不幸」と「みんなの不幸」のあいだに横たわる差異の問題である。

 私が不幸に陥るとき、それが私だけの個人的な不幸であるとするなら、私は、ひとりで担わざるをえない。たとえば、長年ともに暮らしてきた犬が世を去ったとき、その悲しみは、誰とも分かち合うことができない。あるいは、公道をひとりで歩いているとき、老人が運転する自動車が暴走して私に衝突し、重傷を負ったばかりではなく、後遺症に苦しめられることにもなったとき、この不幸もまた、誰とも分かち合うことができないものである。ともに暮らす家族は、私とある程度までは利害を共有してくれるであろう。さらに、私の知り合いは、慰めの言葉をかけてくれるかも知れない。しかし、誰かが私の不幸を自分の不幸として一緒に担ってくれるわけではないのである。また、時間の経過とともに、自分の不幸は、自分だけの不幸となり、さらに、自分にしかわからない不幸となることを避けられない。記憶は風化するものだからである。

 以前、次のような記事を投稿した。


災害をいつまでも覚えていられるのは当事者だけ : AD HOC MORALIST

去年(2016年)は――あるいは、「去年も」というべきであろうか――いろいろな災害があった。熊本地震(4月12日)のような単純な自然災害もあれば、博多での道路陥没事故(11月8日)や糸魚川での大火災(12月22日)のように、どちらかと言えば人災に属するものもあった。


 災害の不幸は、当初は集団的なものであるけれども、やがて、当事者以外の人々から忘れられて行く運命にある。これが上の記事の内容である。どれほど大きな事故や災害でも、やがて人々はこれを忘れ、そして、不幸を抱えた個人だけが取り残される。今から40年前、次のような事件があった。

横浜米軍機墜落事件 - Wikipedia

 私は、当時小学生だったけれども、その後、中学生になってから、この横浜米軍機墜落事件を題材とする次のようなテレビドラマを観た。

あふれる愛に! - ドラマ詳細データ

 このドラマに関し私の記憶に遺っているのは、何よりもまず、厄災というのが、当事者以外の人々の記憶から急速に失われて行くものであり、同情や関心や援助には「賞味期限」があるということである。

不幸を集団で担い、他人のせいにすることによる慰め

 しかし、東日本大震災のように、多くの人々が同時に不幸を被ったとき、そこには、「慰め合いの共同体」と名づけることができるようなものが成立する。たしかに、被災者は孤独ではない、みなが抱えているのは同じ課題であり同じ不幸であるという了解は、被災者たちの慰めになるかも知れない。また、被災の不幸が広く知られることにより、社会の広い範囲において同情が生まれるであろう。不幸は、みなで担われることにより、その重みをいくらか減じることになるはずである。また、「自分の不幸について、私たちには何の責任もない、責任はどこか別のところにある」と叫ぶことが生きる支えになる場合もあるに違いない。

 もちろん、地震、津波、原子力発電所の災害などによって被った損害や不幸は、必ず他人と共有されねばならないものではなく、これをひとりで抱えてかみしめていても、それ自体としては何ら差し支えないものである。けれども、大抵の場合、被災者は犯罪被害者は、集団を作ることを好む。それは、上に述べたように、集団になっていた方が心強いからである。

 自分が被った不幸をひとりで抱え込み、これを反芻するのが好ましいことであるのかどうか、それはよくわからない。ただ、自分の不幸を誰とも共有することを許されぬ人がこの世にはたくさんいることは事実である。いや、むしろ、人間の不幸の大半は、個人的な私的なものであり、誰かに見守ってもらうことも、誰かに耳を傾けてもらうことすら容易ではないのである。だから、同じ不幸を多くの人々と共有することができること、そして、不幸を他人――この場合は政府や東京電力――のせいにすることがかなりの程度まで許されることは、不幸を抱える人々にとっては、自分の不幸に社会的な性格が与える点において、むしろ幸運であると言うことができる。

不幸を克服する努力は自分で始めなければならない

 ただ、政府や東京電力が厄災について責任を負い、何らかの仕方で被災者を支援するとしても、それは、「立ち直る気がある」者に対する責任であり、「立ち直る気がある」者への支援であると考えるのが自然である。政府や東京電力にできることは、努力する者の背中を押すことだけであって、生活を丸ごと支えてくれるわけではなく、原状を完全に回復してくれるわけでもない。

 この世の不幸のほぼすべてが個人の心の中に抱え込まれていることを考慮するなら、社会に広く知られた最近の大災害の被災者、しかも、何千人もの集団をなす被災者には、まだ救いがあると言うことができる。社会から忘れらぬうちに不幸を克服し、「国の責任」「国の支援」を声高に求める必要のない普通の生活へと早く回帰することを心から願っている。