hung over

死が人生にとって持つ意味が死の恐怖の原因である

 「死ぬのは恐ろしいか」という問いに対する答えは、「死」をどのように定義するかによって異なる。死が単純な消滅であるなら、死は、それ自体としては、必ずしも注意を惹く出来事とはならないはずである。なぜなら、自分の存在が消えるとはどのような事態であるのか、誰にも見当がつかないからである。

 しかし、もちろん、消滅としての死は恐ろしいものでありうる。なぜなら、それは、人生の限界を作るものだからであり、生存の終わりを意味するものだからである。だから、消滅としての死は、それ自体として恐ろしいというよりも、それが人生の終わりを意味するかぎりにおいて恐ろしいものとなりうると考えるのが自然である。

 また、死は、恐ろしいものであるばかりではなく、「苦しいもの」「悲しいもの」であることも可能である。しかし、死がつらいものであるのは、死の先触れとして何らかの苦痛が避けられないことが多いからであり、同じように、死が悲しいものであるのは、死ぬことにより、親しい人々の別れを余儀なくされるからであろう。

自分をコントロールできなくなる恐怖

 とはいえ、死には、これをさらに恐ろしいものとする側面がある。それは、死に近づくとともに、自分自身をコントロールすることができなくなるのではないかという恐怖である。

 私は、今のところは、いろいろな意味において外見を取りつくろいながら生きている。人前に出れば、失言しないよう、礼儀正しく、感じよくふるまうよう心がけている。ひとりでいるとき、あるいは、心の中にどれほど醜く汚い感情、欲求、願望、憎悪を抱えていても、これを外に出すことはない。

 しかし、醜いもの、汚いもの、表に出したくないものを封じ込め、これを表に出さないようにするには、それなりの努力が必要となる。

 もちろん、自分の内面を外部へ溢れ出させないようにする努力など、普通の生活を送っている者が自覚しなければならないほどのものではない。私たちは、他人には隠しておきたいことを、特に意識に上ることもなく、その都度、自然に抑え込んでいるのである。

 けれども、私は、自分がせん妄状態になったり、意識を失ったりするとき、醜く汚いものを抑え込む力が失われるのではないか、そして、ヘドロのような内面が――私の「意識」が完全に忘れているものを含めて――すべて表に噴き出してくるのではないかという恐怖をひそかに抱いている。

 私の内面がヘドロのようであるのかどうか、これは、私自身にはわからない。ただ、私の内部に閉じ込めておくことができなくなった全人生の裏側が、私のコントロールを超えてまき散らされると考えると、死ぬことがとても恐ろしく感じられてくることは確かである。

 私が酒を飲まない理由の1つは、ここにある。酒を飲み、万が一泥酔したら、外見を取りつくろうことができなくなり、醜いもの、汚いものが白日のもとにさらされ、しかも、泥酔した自分の言葉、泥酔した自分のふるまいを何も覚えていない……、このような状態になるのが恐ろしいのである。

死への恐怖は、嘘が露見することへの恐怖に似ている

 みずからを自分の完全な支配下に置くことができない状況への恐怖は、「嘘つき」にも同じように認めることができる。

 嘘つきは、過去の自分の他人に対する言動をつねに反芻し、これと矛盾しないよう、内と外を決して混同しないよう、嘘が露見しないよう、自分の言動の首尾一貫性を維持することに膨大なエネルギーを費やす。不誠実を徹底させるには、相当な体力が必要であり、この体力が奪われたとき、不誠実な人生は破綻を免れない。死への恐怖は、嘘rが露見することへの恐怖に似ている。自分が不誠実であったことが暴露されることへの恐怖が死を怖れさせるのであるなら、私たちは、いや、私は、死を恐れなければならないほど自分に対しても他人に対しても不誠実な態度をとっていることになる。(何とも嘆かわしい、救いのない結論になってしまった……。)