Red Cross Museum Geneva

 私は医者が好きではない。必要に迫られなければ、病院には行かないし、医者と話したくもない。幸い、今のところは、持病と言うほどのものはないから、日常的に服用している薬もなく、定期的に医者の診察を受ける必要もない。これはありがたいことである。

 私の場合、歯医者に定期的に通うのを除くと、医者に行く機会は多くはない。だから、差し迫った必要があるわけでもないのに医者にかかる人の気持ちがよくわからないのだが、自分の身体の不調の解消を期待して病院に行くのであろう。たしかに、病院に行って病気を治す、あるいは、治してもらうというのは、ごく当然のことのように見える。

 実際、単なる風邪から十分な治療薬のない難病まで、人間は無数の病気に罹る可能性があるけれども、純粋に「数」という観点から眺めるなら、病院は、これらの病気の大半を治すことが可能である。人間の寿命が大幅に延びたのは、医療の進歩により多くの病気が克服可能になったからである。

 しかし、医療の進歩が人間の長寿を実現したという事実は、私たちに2つのことを教える。第一に、人間の寿命が今ほど長くなかった時代には、医療によって克服することのできる病気や怪我は必ずしも多くはなかったこと、第二に、人間と医療との関係もまた、現在とは異なるものであったことである。

 少なくとも20世紀半ばまでの何千年ものあいだ、医者というのは、病気に対して無力な存在であり、医療の対象となる病気は限られていた。だから、病気に罹り、日常生活にいちじるしく支障をきたすような異状が身体に認められるようになるとき、それはほぼそのまま死を意味したはずである。

 もちろん、中には、病気を治すために考えうるかぎりの可能性を試す者がいないわけではなかったであろう。しかし、このような者が頼るのは、普通の意味における医療ではなく、どちらかと言えば、呪術に属するものであったに違いない。

 「病気になったら病院で治せばよい」というのは、現在の常識であるかも知れない。しかし、これが常識となったのは、最近60年か70年のことである。もちろん、病院に行っても、すべての病気を治すことができるわけではなく、人間にとって死は不可避である。人間はどうせ死ぬのだから治療しても無駄であると言うつもりはないけれども、それでも、医療には明瞭な限界がある。どう生きるか、あるいは、同じことであるが、どう死ぬかを、つねに考えながら医療というものに向き合うことは、治癒する可能性のある病気が増えただけに、そして、死が私たちの身近からその分遠ざかっただけに、現代の私たちにとって、愚者にならないための不可欠の心がけであるように思われるのである。