AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:沖縄


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 昨日、次のような記事を読んだ。

「ガレッジセール」ゴリ テレビからなぜ消えた?(東スポWeb) - Yahoo!ニュース

 私自身は、沖縄には地縁も血縁もなく、基地問題に強い興味があるわけではないが、それでも、時間と体力が許す範囲で情報は集めるように努力している。沖縄に関心を持ち、沖縄について考えることは、沖縄が日本の重要な一部であるかぎり、日本人の義務であると信じているからである。

 しかし、上の記事からわかるように、沖縄の基地に関してどのような意見を持っているかには関係なく、また、文脈にも関係なく、テレビの関係者は、「沖縄+基地」という単語が含まれるすべての発言に対し拒絶反応を示すようである。脳のどこかに「NGワード」のリストがあり、このリストに含まれる単語がヒットすると、脊髄反射が起こるわけである。10年前のコンピューターでも、もう少し柔軟な反応ができたはずである。

 たしかに、沖縄の基地問題については、狂信者が特に多く、合意形成は困難である。だから、狂信者に対する用心はつねに必要であり、いくら警戒しても、警戒しすぎることにはならない。私は、これまで、沖縄の問題をめぐる狂信について、次のような記事を投稿した。


「狂信」の背後にあるものがわかったとしても、意思疎通が可能になるわけではない : AD HOC MORALIST

狂信の政治 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。 特に、マスメディアにお



人間はどこまで思いやりを忘れられるか 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

見ず知らずの相手とのコミュニケーションが含む不確実性 私は、SNSには原則として近づかないことにしている。ツイッターは気まぐれにしか使ってこなかったし、フェイスブックのアカウントは持っていない。直接の知り合いか、あるいは、私の仕事に何らかの関係がありそうな相



「友ではない者はすべて敵」か「敵ではない者はすべて友」か : AD HOC MORALIST

SNSと狂信の深化 インターネット、特にSNSの普及は、社会生活において発生するいろいろな問題に関し「狂信」を助長することが多くなったように思う。もちろん、インターネット以前の時代にも、狂信がなかったわけではない。しかし、かつての狂信の拡大には、明確な物理的制

 けれども、それとともに、沖縄に解決すべき問題、しかも、万人の利害にかかわる問題があることは事実であり、この問題について公然と語ることを禁じ、これを暗い物陰に押し込んでしまうことは――プロ市民の攻撃にさらされるとしても――マスメディアには決して許されないはずである。

 冒頭の記事で取り上げられている芸人の発言は、考えうるかぎりもっとも無色かつ無害なものであり、プロ市民が食いつきそうな「NGワード」がそこに含まれている点を除けば、特に注意を惹くようなものではなかったはずである。(テレビ局は、若干のリスクを負ってでも、芸人の発言を擁護すべきであったと思う。)

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 しかし、このような脊髄反射的な態度は、マスメディアに固有のものではなく、日本の企業社会では普通に観察されるもののようである。

 しばらく前、就職活動中の学生が受ける面接について、次のような話を耳にした。1人の学生が、ある企業での面接で、大学で主に何を研究してきたかと問われ、ナチス時代のドイツ文学について研究していると答え、内容を簡単に説明したところ、「ナチス」という単語が面接者の脊髄反射を促す「NGワード」であったらしく、面接者は、学生に対し、「そういう『後ろ向き』のことを研究しているというのは、他人には言わない方がよい」と真顔で忠告したそうである。これを聞いた私の周辺の(大学関係者の)意見は、この面接者が、文脈や内容を把握する能力を欠いた、コンピューター以下の馬鹿であるという点で一致した。(というよりも、最初は、笑わせるためのネタであるとしか思わなかった。)

 このレベルの見当外れな自主規制は、私たちに、日本の企業社会が深刻な思考停止に陥っていることを教える。たしかに、政治的であることはつねにリスクと一体である。けれども、このリスクから逃れることなく、社会に対してあえてコミットすることにより、社会に寄生し、社会から利益を吸い上げるだけの企業ではなく、社会の不可欠の一部としての役割を担う責任ある企業になることができるはずである。「企業の社会的責任」とは、同じ名前で誤って呼ばれている生ぬるい社会貢献などではなく、むしろ、ときには政治的なリスクを負いながら、社会の新しい可能性を切り拓くことでなければならないように思われるのである。

シーサー

原則:自家用車なしの旅では、行動の自由がいちじるしく制限される

 一昨年と去年、ひとりで沖縄に行き、それぞれ3泊4日で方々を歩き回ってきた。

 私は、沖縄には地縁も血縁もなく、普段から連絡を取り合うような親しい知人がいるわけでもない。だから、旅行中は、ほぼ完全な単独行動であった。ルートを自分で組み立て、行きたいところに行ってきたのである。

 とはいえ、私には自動車の運転ができない。運転免許を持っていないのである。自宅も職場も東京23区内の場合、自動車を持っているメリットはほとんどないのに対し、誰でも直観的にわかるように、沖縄の社会は、誰もが自動車を運転し、それなりの距離を短時間で移動することを前提として成り立っている。

歩行者は最初からお呼びではない

 実際、一昨年、沖縄に行ったときには、こういうことがあった。

 那覇から高速バスに乗って名護に行ったときのことである。名護のバスターミナルに辿りついてバスを降り、ボンヤリと周囲を眺めていたとき、近くのビルの上にあるマクドナルドの看板が目にとまった。

 この看板を見た私の心に最初に浮かんだのは、「ああ、この近所にマクドナルドがあるのか」という実につまらない感想であった。しかし、何秒かこの看板を見つめているうちに、私は、強烈な違和感に襲われた。というのも、この看板は、マクドナルドが「5km先」にあることを告げていたからである。

 東京23区では、「5km先」に店があることを知らせる看板など、何の役にも立たない。もっと近くに別の店があるからである。しかし、沖縄では、店まで徒歩で1時間以上かかる距離にある場所に看板を出すことに意味があるらしい。この看板が自家用車を運転する者が見ることを想定して設置されたものであり、「歩行者」などは最初からお呼びではないことを私は理解した。

 社会全体が自家用車に最適化されているから、運転ができないと、那覇市の中心部のごく狭いエリアを除き、ガイドブックに掲載されているような観光地の大半について、アクセスは途方もなく困難になる。

沖縄本島の南半分については、時刻表を細かくチェックして計画を立てれば、大体の観光地は何とかなる

 もちろん、運転できないと移動の自由が制限されることは、沖縄に行くことを思いついたときから、私にも何となく想像がついていた。観光地を案内するウェブサイトを見ても、ガイドブックを見ても、自家用車によるアクセスの方法しか記載されていないところが実に多いのである。

 だから、私は、バスとタクシーで行けるところまで行き、どうしても行けないところは諦めることにして旅行の計画を立てた。あれこれ調べているうちに、沖縄本島のうち、名護市より北のエリアの観光スポットは、自家用車を運転することができないと手も足も出ないところが多いけれども、南の方は、自動車を運転できなくても、バスとタクシーと徒歩を組み合わせることでアクセス可能なところが多いことがわかってきた。

 行きたいところを決めたら、路線バスでアクセスすることができるかどうかをガイドブックやウェブサイトでチェックする。そして、路線バスでアクセス可能であることがわかったら、

バスなび沖縄

バスマップ沖縄

を利用して、

    • どこの停留所から、
    • 何時何分に
    • どのバス会社の
    • どの系統に乗り、
    • どこの停留所で降りるか、
    • そして、この停留所からどのように歩くか

を、行きたいと思う観光地のそれぞれについて、すべてメモしておく。山の中で道に迷う危険があるから、スマホまたはタブレット型端末は必携であろう。

 観光地によっては、最寄りの停留所を通過するバスが1日1本しかないようなことがある。そのような場合、もう少し便数の多い路線を使い、少し離れた停留所から歩いた方がよい。

 私は、糸満市にある「白梅の塔」を訪れた。白梅の塔とは、従軍看護婦として第二次世界大戦で動員され、犠牲になった沖縄県立第二高等女学校の生徒たち(白梅学徒隊)の慰霊のために建立された記念塔である。

白梅学徒隊 - Wikipedia

 白梅の塔は、「ひめゆりの塔」ほどには有名ではないけれども、その分、観光地化されておらず、静かな雰囲気が保持されている。私自身、白梅の塔を訪れたときには、誰のことも見かけなかった。

 それでは、この白梅の塔に公共の交通機関だけでアクセスする場合、どのバス停を使えばよいのか。純粋に物理的な距離だけを考慮するなら、白梅の塔にもっとも近いのは、沖縄バスの86系統の「田原入口」という停留所である。停留所から白梅の塔までは徒歩5分くらいなのではないかと思う。

 しかし、この「田原入口」を通過するバスは1日にわずか2本、しかも、通過するのは、いずれも午前7時台である。したがって、この系統のバスを使って白梅の塔に行くことは現実的ではないことになる。

 そこで、私は、糸満バスターミナルからバスに乗り、「真栄里」という停留所まで行き、ここから白梅の塔まで歩いた。「真栄里」バス停から白梅の塔までは、私の足で約20分であった。

 「真栄里」は、白梅の塔からは少し離れているけれども、名城バイパスに面したところにあり、複数の会社の複数の路線のバスがここを通過する。15分も待てば、糸満バスターミナル行きのバスに乗ることができるのである。

 なお、次のブログの筆者は、「県営新垣団地入口」という停留所を使ったようであるが、この停留所も、通過するバスの本数が極端に少ない。

沖縄本島縦断 路線バスでゆく大人の修学旅行 第4日

沖縄の人は時間にルーズと言われるが、交通機関は基本的に定刻どおりに運行されている

 東京には、沖縄県の人々について、「時間にルーズ」という印象を持っている者が多い。たしかに、必ずしも時間が守られない場合は少なくないのかも知れない。ただし、バスは、道路の渋滞がないかぎり、基本的に定刻どおりに運行されている。バスの運行管理が杜撰であったら、バスに頼って沖縄を旅するなど不可能であるが、この点について心配する必要はないようである。

教訓:困ったら潔くタクシーを使うべし

 白梅の塔を訪ねたのと同じ日、これに先立ち、私は、同じ糸満市の喜屋武岬に行った。ここは、沖縄戦の激戦地である。

喜屋武岬 - Wikipedia

 上に掲げたブログの筆者も、白梅の塔と同じ日に喜屋武岬を訪れたようである。

 当初、私は、上のブログの筆者が辿ったのと同じルートで喜屋武岬にアクセスしようとした。つまり、喜屋武岬の手前にある同じ名前の集落までバスで行き、そこから徒歩で喜屋武岬に行くつもりだったのである。ところが、バスの乗り継ぎが上手く行かず、そのため、上のブログの筆者がバスを降りたところまでタクシーで行き、そこから歩くことにした。

 ところが、タクシーに乗り、「喜屋武の集落まで行ってほしい、そこからは歩く」と運転手さんに言ったところ、「やめておいた方がよい、悪いことを言わないから、喜屋武岬まで乗って行け」という返事が戻ってきた。

 なぜ喜屋武岬までタクシーで行くことをすすめられたのか、最初はわからなかったけれども、実際に行ってみて、運転手さんのすすめに従って正解であったと強く感じた。というのも、上のブログの筆者が歩いたときとは様子が異なり、私が喜屋武岬を訪れたときには、集落から岬までのあいだの農地が土地改良のための大規模な工事中で、狭い道路をダンプカーや重機を積んだトラックが頻繁に行き来していたからである。当然、歩行者が路上にいる可能性など、まったく考慮されておらず、危険な状態でもあった。タクシーに乗っていなかったら、私は、途中で引き返していたと思う。

 路線バスにこだわらず、必要に応じて柔軟にタクシーを使うことは、時間と体力の節約になるばかりではなく、安全でもあることが多い。私は、ある程度以上長距離の移動にはバスを使ったけれども、移動距離が短いときにはタクシーを頻繁に使った。(各地の観光案内所には、地元のタクシー会社の電話番号が必ず掲げられており、電話で簡単に呼ぶことができる。)

 自家用車を使わずに沖縄を旅行するなら、短距離の移動はタクシーが便利である。ただし、那覇市の中心部については、このかぎりではない。というのも、時間によっては渋滞が激しく、バスであれタクシーであれ、自動車がまったく使いものにならないことがあるからである。

ティンダハナタ

 しばらく前、NHKで次のような番組を見た。

「南西諸島防衛 自衛隊配備に揺れる国境の島」(時論公論) | 時論公論 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス

 南西諸島の防衛を目的とした自衛隊の部隊の配備計画によって地元の住民のあいだに対立が生れていることが取り上げられ、(国政を担う)政治家は、安全保障とともに、地域の安定にも目を向けるべきであるという意味のことが語られていた。

 しかし、私は、外部の人間が、地元の住民のあいだの対立や分断の解消のために努力することにはあまり意味がないと考えている。つまり、対立や分断は、さしあたり放置する他はないように思われるのである。

 いわゆる「ネット右翼」は、プロ市民、外部から来た活動家、外国政府のせいで分断が起っていると主張するかも知れないが、意見の対立が解消されないのは、プロ市民や活動家や外国政府が暗躍しているからではない。(もちろん、何者かが暗躍している可能性はつねにあるけれども、たとえ誰も暗躍していないとしても、)そもそも、何か新しいことが発生すれば、この新しいことをめぐり意見が分かれるのは当然だからであり、安全保障の問題に関するかぎり、「自衛隊を配備するか、それとも配備しないか」の二者択一しかなく、万人が同意するような「落としどころ」など見出すことができようはずはないからである。沖縄の歴史を辿るなら、安全保障をめぐり、このような意見の対立や分断が500年以上にわたり飽きるほど繰り返されてきたことがわかる。だから、私は、上のような番組を見たとき、デジャヴュの感覚に襲われた。このようなことを報道するのは、もう終わりにした方がよいような気もする。

 残念ながら、これまでの歴史の範囲では、沖縄が主体性を発揮して安全保障上の問題を自力で解決したことは一度もない。沖縄には、主体性を発揮するための力の前提となるような人口も面積も産業もない。沖縄が外部の勢力と交渉しようにも、取引材料が何もなく、対等な相手と見なされないのだから、自力では何も解決できないのは――沖縄が無能だからではなく――離島の寄せ集めという沖縄の性格上、また、中国という覇権主義的で帝国主義的な独裁国家がすぐ隣にある以上、仕方のないことである。(この意味において、今の政府は、沖縄県の声によく耳を傾けていると私は考えている。)

 だから、与那国町、宮古市、石垣市などにおいて市民のあいだに意見の深刻な対立があるとしても、これは必然であり、放置するしかない。やがて、時間の経過とともに、自衛隊が地元にいることが事実として承認されるようになれば、分断は自然に解消されて行くはずである。安全保障の問題は、市町村や都道府県の問題ではなく、政府の問題であり、基礎自治体には、大きな枠組みを自分で変更する力がない。地元の住民にとって考える意味があるのは、「受け容れるか/受け容れないか」ではなく、受け容れた場合、その損害――があるとしてーーをどのようにしたら最小限に抑えることができるのかという技術的な問題だけであろう。

 上の番組では、次のようなことが語られていた。

元防衛官僚で官房副長官補を務めた柳沢協二氏は、先月、石垣市で講演し、「最前線に地対艦ミサイルのようなパワーがあれば、相手を拒否する力にはなる。ただ、相手側に本当に戦争をする意思があれば、最初にここが攻撃されるだろう。その覚悟があるのか」と語っていました。

 「その覚悟があるのか」などという脅迫するような表現が使われていることから、この人物がミサイルの配備に反対なのだということはよくわかる。(そもそも、「覚悟がない」としても、だからと言って、何もしないで済ませることが許されるとでもいうのであろうか。)けれども、現実には、覚悟の有無というのは、どうでもよい話である。なぜなら、万人にとって何よりも必要なのは、次のような事実を認識することだからである。

 すなわち、地元の住民に覚悟があってもなくても、また、自衛隊の部隊がいるかどうかにも関係なく、さらに、自衛隊の配備が中国を「刺激」するかどうかにすら関係なく、石垣市、宮古市、与那国町などは、最初から中国に狙われているという事実、その上で、自衛隊なりミサイルなりの配備が、中国が侵略を実際の行動に移す確率を抑えるのに間違いなく効果があるという事実を認識することであるように思われるのである。


Jonah Who Lived in the Whale ....

狂信の政治

 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。

 特に、マスメディアにおいて繰り返し強調されていたのは、ドナルド・トランプを支持する有権者の熱狂である。外国、特に自由民主主義を標榜する先進国の平均的な国民の目に、この熱狂はいくらか不気味なものと映ったはずである。アメリカの大統領選挙の様子を伝えるヨーロッパのメディアがいずれもトランプの主張、あるいは、トランプの主張に賛同する狂信的な支持者を一様にペジョラティヴに扱い、さらに、狂信の経済的、社会的な背景の説明に多くの文字数と時間を費やしてきたのは、ある意味においては自然なことである。たしかに、多くのアメリカ人が社会の現状に対する強い不満を抱いているとしても、荒唐無稽で実現不可能な政策、あるいは、アメリカの国益を損なうことが確実な政策ばかりを掲げる候補者にこれほど多くの支持が集まるのか、当事者ではない者にとり、これは謎であるし、その理由を知りたいと考えるのは、当然のことである。

 とはいえ、狂信の原因がわかったとしても、現実に狂信に囚われている者たちとの意思疎通が可能となるわけではない。狂信者は相変わらず狂信とともに、あるいは、狂信のうちにあり、立場を異にする者が合意形成を目指して何かを語りかけても、耳を貸さないばかりではなく、内容を理解することのできぬまま、あるいは、理解する意欲もないまま、断片的な言葉を捉え、いわば「脊髄反射」のように誹謗中傷の言葉を相手に浴びせかけるばかりである。オープンな議論を拒むこと、「友でない者はすべて敵」というのが政治的狂信の意味だからである。

 民主主義が成立するためには、オープンな議論が不可欠である。オープンな議論の「オープン」の意味は、当事者の態度がオープンであることを意味する。すなわち、議論のプロセスにおいて自分の意見を柔軟に変えることを拒まないような当事者による議論がオープンな議論である。そして、オープンな議論にもとづく合意形成の原則は逆、つまり「敵ではない者はすべて友」である。

 そして、このようなタイプの狂信が現実の政治の場面に姿を現す――イギリスのEU離脱やアメリカの大統領選挙が典型である――と、「真理にもとづかない政治」(post-truth politics)「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) などと呼ばれることになる。事柄の真相や合理的な判断から目をそむけ、幻想や妄想だけを頼りに生きている姿は、覚醒剤中毒の患者を私たちに想起させるはずである。

「友でない者はすべて敵」という狂信は日本にもある

 しかし、このような狂信は、アメリカばかりではなく、わが国にも見出すことができる。ただ、日本人は、不気味な狂信のにおいを感じると、アメリカのようにこれに光を当てるのではなく、むしろ、これを話題にすることを避ける点に違いがあるだけである。先日、次のような記事を見つけた。

日本人の無自覚な沖縄差別

 私自身は、この記事に強い違和感を覚えた。その理由は、上に述べた点にある。すなわち、沖縄の「反基地」活動が「無自覚」の「差別」に対する反作用であるというのは、いかにも左翼の好みそうな見立てであり、しかも、一連の出来事の複雑な真相を切り捨てることによって作られた底の浅い見立てである。

 平均的な日本人が沖縄の基地問題について多くを語らないのは、関心がないからではない。そうではなくて、「反基地」活動に従事する運動家(つまり「プロ市民」)に不気味な狂信のにおいを感じるからである。実際、沖縄の運動家たちは、万人に対し全面的な同意をつねに強要する狂信者である。彼らにとり、自分たちの主張は絶対に真であるから、「友ではない者はすべて敵」となる。つまり、自分たちの意見に賛成しない者はすべて敵となる。彼らにとり、意見の一致を目指してオープンな議論に参加し、全員で協力して最適な解を見出す努力など、思いもよらないであろう。

 しかし、当然のことながら、無条件の同意を他人から強要され、「友ではない者はすべて敵」などと言われたら、私たちは誰でも、非常に窮屈な思いをする。そして、このような狂信者のことは、できるかぎり考えないようにするはずである。多くの日本人が沖縄について多くを語らないのは、狂信を忌避する自然な反応である。沖縄の「反基地」活動は、「差別」に対する反作用という観点からではなく、何よりもまず、狂信という観点から語られるべき事柄であるように思われるのである。


Henoko Residents and U.S. Marines Play Softball

沖縄の保守系政治団体にはそれなりの存在意義がある。


 「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」という政治団体がある。これは、その長い名前からわかるように、沖縄で活動している団体である。また、少しでも沖縄のことを知っている人なら、これが「右寄り」の団体であることを推測するのも、難しくはないであろう。

琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会│ホーム

 沖縄には小規模な保守系の政治団体がいくつかあるようであるが、「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」は、私でも知っているくらいであるから、その中ではもっとも活発な団体であると言ってよい。また、この他に、「沖縄対策本部」という団体もある。(なお、これらの団体は、「まぐまぐ」を利用して無料のメールマガジンを発行し、安全保障に関連する沖縄ローカルの情報を発信しているが……。)

沖縄対策本部 - 沖縄対策本部

 沖縄の保守系の政治活動は、たとえば、

  • 沖縄の二つの地方紙の偏向報道を批判したり
  • 普天間飛行場の辺野古への移設に賛成したり
  • 本土から沖縄に渡ってくる「プロ市民」を牽制したり
  • 尖閣諸島近海への中国船の侵入に関する啓発活動に従事したり
  • 「琉球独立」論を中国の陰謀として非難したり
するものであった。
 日本とアメリカの安全保障面における協力関係は、今のところ、日本と東アジアの安定にとって不可欠であり、この協力関係を実のあるものにするためには、沖縄にはどうしても基地が必要であり、日本政府と協調することのできる政治勢力の形成が必須であると彼らが考えているからである。

 ただ、誰かにわざわざ教えてもらうまでもなく、国際政治についての最低限のリテラシーがあれば、これとは異なる結論に辿りつくはずはないような気がする。これは一種の常識であり、また、この常識を前提として大衆運動に従事するかぎり、その内容が上に挙げたようなものとなるのも、当然のことであろう。このかぎりにおいて、沖縄の保守の活動には、疑問の余地のない大義があると私は考えている。

彼らは真面目だが「沖縄のことにしか興味のない人たち」と見なされている。


 それにもかかわらず、沖縄の保守系の政治団体について、残念に思う点がある。(可能なかぎり好意的な表現を使うなら、)彼らが誰に対して自分たちの主張を伝えようとしているのか、どのような成果を期待しているのか、明らかではないのである。言い換えるなら、彼らの活動には、次のような根本的な問題が認められるのである。

 沖縄県内の言論空間において彼らが少数派であることは、私にもわかる。また、県内の主なマスメディアが彼らの動向を伝えない以上、県民に声を届けるためには、主張を簡潔にまとめ、デモや講演会でこれを連呼しなければならないという事情があることも理解できないわけではない。彼らのターゲットが沖縄のサイレント・マジョリティ(と彼らが信じるもの)だけであるなら、そして、彼らが県外の反応を考慮しないのであるなら、戦略に大きな誤りはないのかも知れない(が、この点は、私には判断する資格がない)。

 しかし、このような活動は、沖縄に地縁も血縁もない私のような者には訴求しないはずである。むしろ、多くの日本人に退屈で粗雑という印象を与えるばかりであろう。
 そして、その理由は、誰の目にも明らかであるように思われる。すなわち、彼らには、日本のあるべき姿に関する固有の見識ないし見解が欠けているのである。

 たしかに、彼らは、沖縄の問題、沖縄に関係のある問題については積極的に発言する。しかし、わが国にとって重要であるけれども沖縄とは直接に関係のない諸問題について、彼らが何らかの意見を公にすることはない。少なくとも私は聞いたことがない。たとえば消費税、たとえば待機児童問題、たとえば原発再稼働……。

 このような重要問題について沈黙しているかぎり、国民の多くが彼らに声に耳を傾けることはないであろうし、彼らに信頼を寄せることもないであろう。なぜなら、国民は彼らを「沖縄のことにしか興味がない人たち」と見なすはずだからであり、「沖縄のことにしか興味のない人たち」の主張が国政に影響を与えることには、当然、誰もが慎重になる似違いないからである。(もっとも、立場の左右に関係なく、沖縄から発せられるすべての言論は、同じ性格を共有している。)

 国民の多くが関心を示すテーマについて固有の視点から発言しつつ、独自の文脈の内部において沖縄を語ることができなければ、世論に影響を与えることなど到底不可能であるように思われるのである。

彼らのすることは雑な印象を与える。


 残念なことに、刺戟を欠いた主張を聴いていると、アラばかりが目につくようになる。私は、去年の春、下の書物を手に入れた。これは、上記の「沖縄対策本部」の関係者が中心となって製作、公刊されたもののようである。




 これは、非常に残念な書物である。残念なのは内容ではない。本の作り方があまりにも粗雑なのである。モノとしての体裁がこれほどなおざりにされた書物に21世紀の日本で出会うとは、私は予想していなかった。

 全国の読者に届けることを望むのなら、造本やレイアウトについて気を遣うことは必須だったであろうが、少し慎重な読者にとっては、表紙に視線を落とすだけで、書物の内容に対する信頼が損なわれるには十分であったに違いない。というのも、表紙には次のように大きく印刷されているからである。

琉球処分、沖縄戦、祖国復帰、辺野古移設、尖閣諸島、琉球独立、ペリー、沖縄県知事選挙、沖縄戦、全ての問題を新たな視点で解説。
 

 誰が見てもすぐにわかるように、ここには「沖縄戦」の3文字が2回使われている。これは、表紙が一度でも校閲されていれば、確実に避けることのできたはずの単純きわまるミスである。このミスは、内容への信頼を損ねるばかりではなく、全般的な「やる気のなさ」の証拠として受け取られかねない。というのも、読者というのは、未知の書物の内容の信頼性を、著者の知名度、あるいは、書物の外観を整えるためにかけられた手間にもとづいて判断するものだからである。上記のミスに気づいていながらこの書物への信頼を失わないのは、著者を直接に知る読者か、あるいは、知的水準がよほど低い読者のいずれかだけではないかと思う。

 このレベルのミスは、沖縄県内の出版界では許容されているのかも知れないが、日本全国に流通する可能性のある書物にとっては致命的であろう。「琉球新報」や「沖縄タイムス」を批判するのなら、せめて両紙と同じくらいには丹念な校閲を心がけるべきであるように思われるのである。

 いや、それ以前に、そもそも表題が表紙に正しく印刷されていないような気がするのだが……。

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