AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:漂着してしまった感

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人生の復元ポイントはどこかを考える

 私は、3月生まれである。そのせいなのか、単に私の職業では年度末に当たるからにすぎないのか、よくわからないけれども、3月になると、来し方行く末を考えることが普段よりもやや多いような気がする。

 特によく考えるのが、標題に掲げた問いである。これまでの人生を振り返り、もっとも大きな岐路になったはずの瞬間を思い出すわけである。(とはいえ、瞬間を特定することができず、「そのころ」という漠然とした形でしか思い出すことができない場合もある。)

 一般に、「人生をやりなおせるとしたら、どこに戻るか」と問われるとき、いくつかの瞬間が心に浮かぶはずである。そして、あのとき別の選択をしていれば、人生がかなり違うものになっていたかも知れないと考えてみるのが普通である。人間なら誰でも、人生の中で失ったものは少なくない。実現を望みながら、この望みをかなえることができなかったような事柄もあるであろう。「人生をやりなおせるとしたら、どこに戻るか」をみずからに問うときに誰もが想起するのは、自分の「あのようになっていたらよかった人生」であり、そのような別の人生の可能性が決定的に失われ、後戻りすることができなくなった瞬間である。言い換えるなら、自分が――すでに、あるいは、まだ――手にしていない何かをみずからのものとするような選択が可能であった(かも知れない)瞬間、重大な誤りの瞬間である。さらに具体的に言うなら、今から振り返り、「あのとき別の選択をしていれば、こんなに苦労しなくて済んだかも知れない」「あのとき別の選択をしていれば、もっと楽しい人生を送ることができたかも知れない」と思うような瞬間である。これは、ウィンドウズのパソコンでバックアップをとるときの「復元ポイント」のようなものである。

人生の復元ポイントの見つけ方

 もちろん、形式的に考えるなら、人生を一方向的な「流れ」と見なし、復元ポイントを流れの「分岐点」のようなものとして思い描くことは不適切である。時間と空間のあいだには本質的な差異があり、次の本に詳しく記されているように、復元ポイントを再現することは不可能だからである。


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 とはいえ、人生の復元ポイントを捜すのは、過去に戻って人生をやり直すための作業であるというよりも、さしあたり、自分の人生の枠組を確認し、これからなすべきことを知ることを目標とする作業である。したがって、形式的な問題をいったん無視し、復元ポイントを探すことには、それなりの意義が認められるであろう。

 復元ポイントに戻る場合、現在から遠い位置にある復元ポイントから再出発するほど、そこから始まる「別の人生」と今の人生との差異は大きくなる。反対に、現在からもっとも近い復元ポイントから再出発しても、現実と大きく異なる人生を辿ることにはならないはずである。

 今後の人生の成り行きにより、新しい復元ポイントが近い過去に(あとから)見つかる可能性はあるけれども、私自身の場合、さしあたり、30歳のときのある出来事に関する選択が直近の復元ポイントである。私は、このとき、明らかに選択を誤った。そして、選択を誤ったことにすぐに気づいた。30歳以降の約15年の人生は、このミスが原因で惹き起こされたさまざまな問題を収拾し、人生をもとの軌道に戻すために費やされたようなものであった。(だから、今のところ、30歳以降に大きな復元ポイントは見つかっていない。)

 さらに人生を遡ると、私の人生では、26歳、25歳、23歳、20歳、16歳に復元ポイントが見つかる。これらが復元ポイントとして私の心に浮かぶのは、今から振り返るとき、これらの瞬間に、進学や職業選択などについて、その後の人生の枠組みを決めるような――しかし、今から考えると、基本的には必ずしも好ましい結果を産まなかったように見える――重大な決断が下されたように思われるからである。(復元ポイントは、若いころに多い。若いころには、選択を誤ることが多いということなのであろう。)

 このようにして、復元ポイントを探しながら、人生を過去へと少しずつ遡り、最終的に、私は、10歳の自分に辿りついた。10歳(つまり小学校4年生)の終わりごろに私のもっとも古い復元ポイントが見つかったのである。(これ以前にも復元ポイントはあるのかも知れないが、もはや記憶が定かではない。)

 私が通っていたのは、自宅の近くにある普通の公立の小学校である。しかし、さまざまな理由によって、この時期、公立の中学校にそのまま進むのではなく、私立の中学校を受験することを決め、学習塾に通い始めたのである。

 もちろん、目指す中学校に合格していなかったら、この決定は人生の岐路にはならなかったに違いない。また、中学校入学以降の生活が楽しいものであったなら、やはり、この決定を人生の岐路として思い出すことはなかったであろう。つまり、中学校を受験するという選択のせいで、不愉快なことが次々と起こり、この不愉快から逃れるために新たな一手を考えざるをえなかったという記憶と自覚があるから、10歳のときの決定が復元ポイントとして想起されるのである。

漂流する人生を肯定する

 復元ポイントを見出し、これまでの人生において自分が何を選択してきたかを確認することにより、人生の「棚卸し」が可能となる。自分が何を選んできたのか、また、それはなぜだったのか、そして、自分が本当にやりたかったことは何であったのか、かつて望んだことを今でもやりたいと思っているのか……、復元ポイントを探す作業は、このようなことを考えるよすがとなる。

 以前、次のような記事を書いた。


人生における「漂着してしまった感」 : AD HOC MORALIST

人生で最初に仕事を持ってから、あるいは、初めて就職するときから、私たちは、「なぜこの仕事に就いているのか」「なぜこの職業を選んだのか」などの問いにたえずつきまとわれる。おそらく、人生を終えるまで、この問いから解放されることはないのであろう。 もちろん、

 人生に復元ポイントが見つかるということは、当人にとっては楽しくないかも知れないが、これが人生に厚みを与えるものであることは確かである。復元ポイントが何もないとは、人生を左右するような選択の誤りを一度もおかしたことがないことを意味する。しかし、現実の大人は、たくさんの失敗、たくさんの向こう傷を負いながら大人になっているはずであり、上の記事で述べたように、「今、ここ」の私が、理想へと向かう直線、曲がり角も分かれ道もない一本の直線の上に位置を占めているという確信など、本来は、ありうべからざるものである。自分のキャリアパスを自信を持って説明することのでできる人間というのは、どこかで自分を欺いているように思われてならないのである。

Koijigahama

 人生で最初に仕事を持ってから、あるいは、初めて就職するときから、私たちは、「なぜこの仕事に就いているのか」「なぜこの職業を選んだのか」などの問いにたえずつきまとわれる。おそらく、人生を終えるまで、この問いから解放されることはないのであろう。

 もちろん、この問いに対する模範的な答えは、現実の仕事と「なりたい自分」の理想を太い直線によってつなぐことによって与えられる。また、このような答えが格好よい答えであり、この問いに格好よく答えることができる人生が格好のよい人生であると普通には考えられているようである。

 たしかに、自分のキャリアパスを簡潔に説明し、これに一貫したストーリーと意味を与えることは、就職面接を始めとして、自分について語る場面では必ず要求される課題である。けれども、この問いに対し誰でも格好よく答えることができるとはかぎらないこともまた事実である。私たちは、それほど格好のよい人生を送っているわけではないからである。躓いたり、逃げ出したり、小休止があったり、転進したり……。むしろ、この問いに対するあまりにも格好のよい答えを耳にすると、私のように性格があまりよくない人間は、不誠実と不自然のにおいをそこにかぎとってしまう。

 実際、私自身、なぜ今の仕事に就いているのかと問われても、明瞭な仕方で返事はできない。たしかに、キャリアパスのそれぞれの段階にはそれなりの岐路があり、それぞれの時点では、自分の能力と機会が許す範囲で最善の選択をしてきたつもりであるけれども、今からその歩みを振り返ってみても、首尾一貫した何かがそこに認められるわけでもなく、ミミズが這ったあとのような曲がりくねった軌跡が自分の背後に残るばかりである。曲がり角を曲がるたびに新しい眺めが広がり、その都度置かれた状況のもとで次の段階を考える……、これまでのところ、私の人生とはこのようなものであった。だから、「なぜこの仕事に就いているのか」とか「なぜこの職業を選んだのか」とか、このように問われても、私にできるのは、「次の最善の一手を考えて行動しているうちに、ここに流れ着いた」というような漠然とした答えだけである。ほとんどの大人は、この点に関しほぼ同じであろう。

 恐ろしく、また、胡散くさいのは、このような「漂着してしまった感」がまったくない場合である。自分の人生の格好悪い部分を忘れているのであろうか、それとも、子どものときから「なりたい自分」が明瞭であり、目標に1ミリの変化もないのであろうか、「なりたい自分」へと一歩ずつ確実に接近する直線的なプロセスとして自分の人生を描くことができる人間というのは、どこかに近づきがたいものがあるばかりではなく、人間的な面白みや誠実が決定的に欠けているような印象を周囲に与えるはずである。

 意見、理想、欲求は、時間とともに変化するものである。だから、自分の人生航路を迷いのない一直線として描くことができるなど、人間の自然に反するに違いない。むしろ、自分をうまくアピールすることができず、なぜ今の仕事に就いているのかを問われても格好よく答えられない方がよほど人間的であり、誠実であるように思われるのである。


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