After a long tiring day

 ずいぶん前から、私には、ある夢がある。それは、ある朝、目が覚めたとき、その日にしなければならない用事が何もなく、「さあて、今日は何をしようかな?」と心の中で――口に出してもかまわないのだが――つぶやきながら床を出て、ゆっくり朝食を摂りながらその日の予定を決める、というものである。

 もちろん、現実には、そのような朝が訪れる可能性は低い。私に限らず、多くの人々が、ひとりでは担いきれないほど大量の仕事を抱えており、目が覚めたときには、その日1日の予定がすでに埋まっているばかりではなく、翌日も翌々日も、すべての時間を「しなければならないこと」の処理に使わなければならないからである。

 だから、手帳に何も予定が記されていないばかりではなく、そもそも、しなければならないことが何もない状態で――ことによると、鳥のさえずりで――目覚めるなどというのは、荒唐無稽な夢物語なのかも知れないが、それでも、自由な時間を少しでも確保したいとつねに考え、時間に余裕ができることを基準に生活を組み立ててきた私のような人間にとっては、「さあて、今日は何をしようかな?」とつぶやくことで始まる1日が遠い目標であることに変わりはない。

 もちろん、私のこの夢または目標は、次のような批判を避けることができない。「人間は社会的な生き物であり、その価値は、どのくらい他人から必要とされているかによって決まる。『さあて、今日は何をしようかな?』とつぶやきながら床を出る、などというのは、社会から必要とされていない証拠であり、嘆かわしい生き方以外の何ものでもない、云々。」

 私は、どのくらい他人から必要とされているかによって人間の価値が決まるという考え方を好まない。たしかに、他人から頼られ必要とされることは、「生きがい」「やりがい」と呼ぶことのできるような気分を私の心の中に醸成する。それは、間違いのない事実である。しかし、このような「生きがい」「やりがい」に振り回され続けることで、自分がもともと立っていた場所がわからなくなる危険は決して小さくない。むしろ、他人の目に映った自分の姿を手がかりに自分の価値を探ることを続けていると、最終的には、「承認中毒」に陥ることを避けられないように思われる。実際、SNSの普及のせいで、「承認中毒」患者の数は、爆発的に増えているに違いない。したいことをするための自由な時間を確保することを私があえて第一目標として高く掲げているのには、時代のこのような傾向への異議申し立てという意味合いがある。

 ただ、自由な時間は、自律的な生活を保証するわけではない。時間がいくらあっても、何もしないということが可能だからである。実際、物理的な制約が少なくなるほど、人間は怠惰になるような気もする。それでも、することが完全に何もなくなったら、人間は、そのとき、すべきことをみずからの内部からひねり出すことになるはずである。そして、それは、周囲の目にはどれほど下らないと映ることであっても、それは、本人の生存にとって途方もなく価値のある活動であるに違いないが、それがどのような活動であるかは、「さあて、今日は何をしようかな?」とつぶやきながら床を出る体験をしてみないことにはわからない。(もちろん、アンドレ・ジイドが『法王庁の抜け穴』で描く「無償の行為」のように、それは、重大な違法行為であるかも知れない……。)