AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:狂信


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 昨日、次のような記事を読んだ。

「ガレッジセール」ゴリ テレビからなぜ消えた?(東スポWeb) - Yahoo!ニュース

 私自身は、沖縄には地縁も血縁もなく、基地問題に強い興味があるわけではないが、それでも、時間と体力が許す範囲で情報は集めるように努力している。沖縄に関心を持ち、沖縄について考えることは、沖縄が日本の重要な一部であるかぎり、日本人の義務であると信じているからである。

 しかし、上の記事からわかるように、沖縄の基地に関してどのような意見を持っているかには関係なく、また、文脈にも関係なく、テレビの関係者は、「沖縄+基地」という単語が含まれるすべての発言に対し拒絶反応を示すようである。脳のどこかに「NGワード」のリストがあり、このリストに含まれる単語がヒットすると、脊髄反射が起こるわけである。10年前のコンピューターでも、もう少し柔軟な反応ができたはずである。

 たしかに、沖縄の基地問題については、狂信者が特に多く、合意形成は困難である。だから、狂信者に対する用心はつねに必要であり、いくら警戒しても、警戒しすぎることにはならない。私は、これまで、沖縄の問題をめぐる狂信について、次のような記事を投稿した。


「狂信」の背後にあるものがわかったとしても、意思疎通が可能になるわけではない : AD HOC MORALIST

狂信の政治 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。 特に、マスメディアにお



人間はどこまで思いやりを忘れられるか 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

見ず知らずの相手とのコミュニケーションが含む不確実性 私は、SNSには原則として近づかないことにしている。ツイッターは気まぐれにしか使ってこなかったし、フェイスブックのアカウントは持っていない。直接の知り合いか、あるいは、私の仕事に何らかの関係がありそうな相



「友ではない者はすべて敵」か「敵ではない者はすべて友」か : AD HOC MORALIST

SNSと狂信の深化 インターネット、特にSNSの普及は、社会生活において発生するいろいろな問題に関し「狂信」を助長することが多くなったように思う。もちろん、インターネット以前の時代にも、狂信がなかったわけではない。しかし、かつての狂信の拡大には、明確な物理的制

 けれども、それとともに、沖縄に解決すべき問題、しかも、万人の利害にかかわる問題があることは事実であり、この問題について公然と語ることを禁じ、これを暗い物陰に押し込んでしまうことは――プロ市民の攻撃にさらされるとしても――マスメディアには決して許されないはずである。

 冒頭の記事で取り上げられている芸人の発言は、考えうるかぎりもっとも無色かつ無害なものであり、プロ市民が食いつきそうな「NGワード」がそこに含まれている点を除けば、特に注意を惹くようなものではなかったはずである。(テレビ局は、若干のリスクを負ってでも、芸人の発言を擁護すべきであったと思う。)

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 しかし、このような脊髄反射的な態度は、マスメディアに固有のものではなく、日本の企業社会では普通に観察されるもののようである。

 しばらく前、就職活動中の学生が受ける面接について、次のような話を耳にした。1人の学生が、ある企業での面接で、大学で主に何を研究してきたかと問われ、ナチス時代のドイツ文学について研究していると答え、内容を簡単に説明したところ、「ナチス」という単語が面接者の脊髄反射を促す「NGワード」であったらしく、面接者は、学生に対し、「そういう『後ろ向き』のことを研究しているというのは、他人には言わない方がよい」と真顔で忠告したそうである。これを聞いた私の周辺の(大学関係者の)意見は、この面接者が、文脈や内容を把握する能力を欠いた、コンピューター以下の馬鹿であるという点で一致した。(というよりも、最初は、笑わせるためのネタであるとしか思わなかった。)

 このレベルの見当外れな自主規制は、私たちに、日本の企業社会が深刻な思考停止に陥っていることを教える。たしかに、政治的であることはつねにリスクと一体である。けれども、このリスクから逃れることなく、社会に対してあえてコミットすることにより、社会に寄生し、社会から利益を吸い上げるだけの企業ではなく、社会の不可欠の一部としての役割を担う責任ある企業になることができるはずである。「企業の社会的責任」とは、同じ名前で誤って呼ばれている生ぬるい社会貢献などではなく、むしろ、ときには政治的なリスクを負いながら、社会の新しい可能性を切り拓くことでなければならないように思われるのである。

日の丸

右翼の変質か

 今朝、次のような記事を読んだ。

日本第一党がアパホテルで結党大会 きょう26日午後(カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース

 また、これに関連して、次のような記事を見つけた。

日本第一党のアパホテルでの結党大会を紹介した神奈川新聞の記事に「目の敵にしてる感凄い」の声 | BuzzNews.JP

 私は、個別の政治的な問題について論評することはあまり好きではないが、これについては、簡単に書いておきたい。最近、「右翼界隈」で気になるニュースが多いからである。

 時間の順序を無視して気になった方から並べると、

    • 第1に「ニュース女子」の問題、
    • 第2にアパホテルの客室の本の問題、
    • 第3に森友学園の問題、そして、
    • 第4に、上の記事が取り上げた問題が特に目を惹く。

 これらのうち、第3の問題は、大手のメディアですでに報道されていることがすべて事実であるなら、正確には、右翼の問題というよりも、自称右翼による詐欺事件であり、政治とはさしあたり関係がない。

 また、第2の問題は、基本的には外国の問題であり、わが国とは関係がない。南京大虐殺に関し中国の主張するところが基本的にすべて虚偽であることは、今さら誰かに教えられなくても、日本人ならみな知っていることであるし、また、「ユダヤ人の陰謀」云々に真剣に言及している(と報道されている)「歴史書」など、最低限のリテラシーを具えた人間なら決して手をのばさないはずである。

 しかし、その他は、現在の社会の深刻な状況を反映するものと見なされるべきであるように思われる。

これは愛国者の団体なのか

 政治的な問題について発言する資格が自分にあるかどうか、簡単に確認する方法がある。すなわち、「私は愛国者です」と自分に向かって宣言することができる人は、政治的な問題について考えたり発言したりする資格がある。この場合、「愛国者」の定義は問題ではない。自国を大切に思う気持ちを持つ者、自国への愛情や敬意を動機として行動することができる者はすべて「愛国者」を名乗る資格があると私は考えている。

 そもそも、政治が決めなければならないことはただ1つ、「わが国をどうするか」ということに尽きる。したがって、日本に愛着がない人間は政治を語ってはならない。「私は日本を愛している」と胸を張って言えないような人間が政治に口出ししても、日本を好ましい方向へと変化させることは期待することができるはずがない。これは、誰にでも明らかなことであろう。カレーの嫌いな人間が経営するカレー専門店で美味いカレーに出会う可能性が低いのと同じことである。(「共産党」という政党がアメリカで非合法化されているのは、共産主義が国家という枠組を認めないからであり、現在の中国やかつてのソ連が典型的に示すように、本質的に帝国主義的、独裁的、権威主義的、反民主主義的だからである。)

 しかし、少なくとも私の見るところ、「在特会」の行動は、いかなる意味でも愛国的ではなかった。いや、それ以前に、政治的ですらなかった。政治とは、意見を異にする者たちとのあいだのオープンな議論によって、全員が受け容れられるような合意を時間をかけて形成して行くことがだからである。在日韓国・朝鮮人を街頭で動物的に誹謗中傷することは、本来の意味における政治に対する敵意の表現でしかない。

 在特会は、右翼でも保守でもなく、ルサンチマンと憎悪を古典的かつ安直な手段で煽るだけの狂信者の団体であり、彼らの主張することが事実に合致しているかどうかには関係なく、この意味においてすでに社会の脅威であった。この認識は、社会の広い範囲において共有されていると私は思う。だから、上に掲げた「神奈川新聞」の記事が反映する危機感は、ごく自然なものであり、多くの読者によって違和感なく受け容れられたはずである。

政治空間の溶解

 私は、自分が基本的には保守派であり、この意味では政治的に右寄りであると考えている。現在の自民党政権が進める政策を――細部については疑問や批判があるけれども――全体としては肯定的に評価している。憲法改正には賛成であるし、自衛隊は、当然、軍隊に格上げされねばならない。短期的なエネルギーの需要を考えるなら、原子力発電所を再稼働させないなど、考えられない。また、少なくとも義務教育の段階では、愛国心の涵養は大切な課題であろう。さらに、韓国、中国、アメリカなどへの対応も、おおむね支持しうるものである。(なお、私の同業者のあいだでは、現政権を基本的に支持する者は少数であり、これをあからさまに表明すると、珍獣扱いされかねないが、国民全体では、現政権の支持者は多数派であるに違いない。)

 それでも、在日外国人に対する憎悪を煽る団体が、決して国民の多数から支持されることはないとしても、弱火で燃え続けるコンロの火のように、いつまでも社会の片隅でくすぶり続けていることに、私はある種の気味悪さを覚える。(これは、一部の外国政府の支援を受けて活動する極左の各種団体の気味悪さに似ている。両者の表面的な主張のあいだには何の接点も認められないけれども、無責任に国民を煽って支持者を集めること、場合によっては暴力に訴えることなど、そのパターンには共通点するところが少なくない。両者は、イカとタコのような間柄だと考えることができる。)

 選挙によって作り出される勢力図を見るかぎり、今のところ、国民の大多数は、自民党よりも「さらに右」を望んではいないようであるけれども、将来はどうなるか、私にはよくわからない。「さらに右」の支持が国民のあいだに広がるとき、社会は、健全な議論のための政治空間をすべて失い、本当の危機に陥るに違いない。だから、私たちは一人ひとり、どれほど「きれいごと」であると言われようとも、中庸と節度を大切にして、公論の形成という旗を掲げ続けなければならないのだと思う。

Hippy

SNSと狂信の深化

 インターネット、特にSNSの普及は、社会生活において発生するいろいろな問題に関し「狂信」を助長することが多くなったように思う。もちろん、インターネット以前の時代にも、狂信がなかったわけではない。しかし、かつての狂信の拡大には、明確な物理的制約があった。空間のへだたりを超えて「同志」が結びつくことは稀であり、このかぎりにおいて、現在と比較するなら、狂信は散発的、局所的であったと言うことができる。

 しかし、このような制約はSNSによって取り除かれ、今や、狂信者は、ネット上で同志と結びつき、みずからの狂信を強く、そして深いものにしている。狂信者はますます狂信的になり、独善的になって、自分が真実と信じるものにしがみつくようになっているのである。狂信というものの本来の姿が見えるようになったということなのかも知れない。

 狂信は、宗教の専売特許などではない。私たちは、健康情報から政治まで、社会のあらゆるところで狂信に出会う。ただ、あらゆる種類の狂信者は、自分の意見を絶対に変えないことにより、言論空間の「デッドスペース」となることを避けられない。狂信者たちというのは本質的に全体主義的だからであり、意見の多様性というものを少しも認めないからである。だから、立場をいくらか異にする狂信者たちのあいだで話題になりうることがあるとするなら、それはただ1つ、「どちらが『正統』であるのか」という非生産的な問題だけである。

 狂信者を周囲から隔てるのは、「友ではない者はすべて敵」という原則である。「自分の主張は完全に正しい、だから、自分と違う意見の持ち主はすべて悪であり敵である」、このように主張する者の周囲には、同じ意見の持ち主ばかりが集まり、外部に対し暴力的かつ威嚇的な態度をとることが少なくない。また、このような態度は、周囲とのあいだの壁を高く厚くすることになる。たしかに、あなたが「友ではない者はすべて敵」と公言したら、あなたがどのような意見の持ち主であっても、あなたの周囲にいる人間の大半はあなたから離れ、敵陣へと駆け込むはずである。

思いやりの遮断

 もちろん、自分に同意しない者がいるという事実を謙虚に受け止め、自分の意見が完全に正しいわけではないかも知れないということに思いいたるなら、そして、みずからの立場を冷静に吟味することができるなら、狂信に陥ることは簡単に避けられる。そして、幼稚な思い込みから抜け出し、複雑で多面的な現実へと分け入ってこれを承認することが、本当の意味における人間的な成長なのである。それは、「敵ではない者はすべて友」という原則を引き受けることに他ならない。

 この意味において、狂信というのは、想像力の欠落の裏面であると言うことができる。たしかに、想像力や他人への思いやりをあえて捨て、幼稚な状態にあえてとどまることで、目の前に広がる複雑な世界を単純かつ粗雑に二色に塗り分けることが可能となる。SNSは、同志ばかりを周辺に集めることにより、想像力を動員して複雑な現実とほどよい距離をとる労苦から狂信者を解放することになったのである。SNSが社会にもたらしたのは、一種の野蛮であったと言うことができる。

 公共の空間において表明された言論の価値は、この言論において、どの程度まで反対意見が考慮され、反対意見の持ち主を説得する努力が認められるかによって決まる。合意形成を目標として公表されたものだけが、価値ある言論である。完全に正しい意見など、この世にあるはずがない以上、自分の意見が絶対に正しいことを前提として、信じたいものだけを信じ、意見を異にする他人を非難するだけの言論は、単なるノイズとして斥けられるべきであると私は考えている。「偽ニュース」というのは、信じたいものだけを信じる狂信者が産み出し、流通させているものである。したがって、「偽ニュース」を駆除するもっとも効果的な方法は、事実をチェックすることではなく、むしろ、言論空間のノイズを断固として排除し、狂信者の言葉に耳を貸さないことであるように思われるのである。

the KKK rally (circa early 70's)

見ず知らずの相手とのコミュニケーションが含む不確実性

 私は、SNSには原則として近づかないことにしている。ツイッターは気まぐれにしか使ってこなかったし、フェイスブックのアカウントは持っていない。直接の知り合いか、あるいは、私の仕事に何らかの関係がありそうな相手ならばともかく、完全な見ず知らずの相手とのネット上でのコミュニケーションは、大きな不確実性を含んでいるからである。見ず知らずの相手との意思疎通の困難については、以前に2回、別の観点から書いたことがある。


共生の悪夢と社会の「融和」 : アド・ホックな倫理学

昨日、次のような記事を見つけた。「学歴」という最大の分断 大卒と高卒で違う日本が見えている 高等学校卒業が最終学歴である人々と、大学卒業が最終学歴の人々とのあいだに、社会に対する見方に関し大きな隔たりが生れ、しかも、たがいに相手が社会をどのように見てい


「狂信」の背後にあるものがわかったとしても、意思疎通が可能になるわけではない : アド・ホックな倫理学

狂信の政治 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。 特に、マスメディアにお

 SNSにおけるコミュニケーションの不確実性というのは、一言で表現するなら、相手が何者なのかよくわからないことに由来する不確実性である。私が何かを発信する場合、私の言葉を相手がどのように受け止めるのかまったく見当がつかない。同じように、相手から私に向けて差し出された言葉を正確に理解するためには、言葉の背後にある暗黙の了解や文脈を共有しなければならないけれども、見ず知らずの相手の場合、このような点については、乏しいサインを手がかりにただ想像するほかはない。少なくとも、私の乏しい経験の範囲では、SNSで不意打のように成立する見ず知らずの相手とのコミュニケーションについて、上手く行ったという手応えが得られることは滅多にない。

 そもそも、SNS、特にツイッター上で、わずか140文字で見ず知らずの他人が言おうとしていることを正しく把握するなど、ほぼ不可能である。「正常な」コミュニケーションをツイッターで実現するためには、140文字を丹念に読み、前後のツイートを読み、誰をフォローし、誰にフォローされているかを確認することで、相手がどのような人間であるのかをあれこれと想像することが必須である。また、私が使う言葉は、慎重に選ばれなければならない。このような作業には、多くの時間と体力が必要となる。ツイッターは、スマートフォンで気軽に使うことができるようなものではない。しかし、ここまで用心しても、地雷を踏んでしまう危険がなくなるわけではない。

池に落ちた犬を叩く者たち

 自分の何気ない投稿に対して、見ず知らずの人間から意味不明な言いがかりをつけられ、この言いがかりが周囲に拡散して面倒なことになった経験がある人がいるかも知れない。もちろん、直接に対面しているのなら、あるいは、ブログやウェブサイト上での長文でのコミュニケーションなら、相手の誤解を解く余地、あるいは、落としどころを見つける余地が多少は遺されていると考えてよい。何と言っても、あなたがブログやウェブサイトに投稿した記事が問題であるなら、言いがかりをつける方もまた、あなたの立場を背景を含めて理解するために、それなりに時間をかけてあなたの言葉を読んでいるわけであるから、あなたは、言いがかりをつけてきた相手に対し、あなたの説明を聴き、あなたの言いたいことを理解する努力をいくらか期待することが許される。

 ところが、ツイッターの場合、誰かに言いがかりをつけられた瞬間にはすでに、さらなるコミュニケーションの可能性は閉ざされている。相手は、一種の狂信者であり、自分と違う考え方、自分と違うあり方を一切認めない。彼らは、何かに対し居丈高に怒り、何かに対し聞くに堪えない罵声を浴びせ、何かを吊し上げたいだけであり、このような人間にとって、あなたの言葉をあなたの身になって正しく理解したり、あなたの発言の背後にある前提や文脈を想像するなど、最初から関心の外にあると言ってよい。あなたは、マッチに点火するのに必要なマッチ箱の側面のようなものにすぎないのである。

 あなたに対する言いがかりが周囲に拡散するとしたら、それもまた、いかなる意味でもコミュニケーションではなく、ただ、あなたを晒し者にする一種の祭りに参加し、刹那的な偽りの一体感を体験したいだけであり、そこには、人間としてのあなたの尊厳への気遣いなど何もない。騒ぎがある程度以上大規模になるとき、これが「ネット私刑」などと呼ばれる理由である。

 現実の世界でも、サイバースペースでも、コミュニケーションの基本は、「相手の身になること」である。相手の身になり、相手のことを理解する努力が(たとえコミュニケーションが敵対的なものであっても)意思疎通の前提である。ただ、残念なことに、人間には、「相手の身にならないこと」「意志疎通の努力を放棄すること」がつねに可能である。実際、ネット上の見ず知らずの者たちの「交流」では、「誹謗中傷をこれ以上続けたら、相手は社会的に葬られてしまうのではないか」「これだけ大量の憎悪表現を寄ってたかって浴びせ続けたら、相手は立ち直れないのではないか」などの気遣いは、必ずしも前提とはならない。実際、ツイッターには、自分が罵声を浴びせる相手が精神を病もうと、自殺しようと、社会から抹殺されようと、そのようなことには一切頓着しない者たちが跋扈する一種の無法地帯としての側面がある。なぜ人間がそこまで思いやりを忘れることができるのか、これは人間の存在をめぐる1つの謎である。

Jonah Who Lived in the Whale ....

狂信の政治

 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。

 特に、マスメディアにおいて繰り返し強調されていたのは、ドナルド・トランプを支持する有権者の熱狂である。外国、特に自由民主主義を標榜する先進国の平均的な国民の目に、この熱狂はいくらか不気味なものと映ったはずである。アメリカの大統領選挙の様子を伝えるヨーロッパのメディアがいずれもトランプの主張、あるいは、トランプの主張に賛同する狂信的な支持者を一様にペジョラティヴに扱い、さらに、狂信の経済的、社会的な背景の説明に多くの文字数と時間を費やしてきたのは、ある意味においては自然なことである。たしかに、多くのアメリカ人が社会の現状に対する強い不満を抱いているとしても、荒唐無稽で実現不可能な政策、あるいは、アメリカの国益を損なうことが確実な政策ばかりを掲げる候補者にこれほど多くの支持が集まるのか、当事者ではない者にとり、これは謎であるし、その理由を知りたいと考えるのは、当然のことである。

 とはいえ、狂信の原因がわかったとしても、現実に狂信に囚われている者たちとの意思疎通が可能となるわけではない。狂信者は相変わらず狂信とともに、あるいは、狂信のうちにあり、立場を異にする者が合意形成を目指して何かを語りかけても、耳を貸さないばかりではなく、内容を理解することのできぬまま、あるいは、理解する意欲もないまま、断片的な言葉を捉え、いわば「脊髄反射」のように誹謗中傷の言葉を相手に浴びせかけるばかりである。オープンな議論を拒むこと、「友でない者はすべて敵」というのが政治的狂信の意味だからである。

 民主主義が成立するためには、オープンな議論が不可欠である。オープンな議論の「オープン」の意味は、当事者の態度がオープンであることを意味する。すなわち、議論のプロセスにおいて自分の意見を柔軟に変えることを拒まないような当事者による議論がオープンな議論である。そして、オープンな議論にもとづく合意形成の原則は逆、つまり「敵ではない者はすべて友」である。

 そして、このようなタイプの狂信が現実の政治の場面に姿を現す――イギリスのEU離脱やアメリカの大統領選挙が典型である――と、「真理にもとづかない政治」(post-truth politics)「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) などと呼ばれることになる。事柄の真相や合理的な判断から目をそむけ、幻想や妄想だけを頼りに生きている姿は、覚醒剤中毒の患者を私たちに想起させるはずである。

「友でない者はすべて敵」という狂信は日本にもある

 しかし、このような狂信は、アメリカばかりではなく、わが国にも見出すことができる。ただ、日本人は、不気味な狂信のにおいを感じると、アメリカのようにこれに光を当てるのではなく、むしろ、これを話題にすることを避ける点に違いがあるだけである。先日、次のような記事を見つけた。

日本人の無自覚な沖縄差別

 私自身は、この記事に強い違和感を覚えた。その理由は、上に述べた点にある。すなわち、沖縄の「反基地」活動が「無自覚」の「差別」に対する反作用であるというのは、いかにも左翼の好みそうな見立てであり、しかも、一連の出来事の複雑な真相を切り捨てることによって作られた底の浅い見立てである。

 平均的な日本人が沖縄の基地問題について多くを語らないのは、関心がないからではない。そうではなくて、「反基地」活動に従事する運動家(つまり「プロ市民」)に不気味な狂信のにおいを感じるからである。実際、沖縄の運動家たちは、万人に対し全面的な同意をつねに強要する狂信者である。彼らにとり、自分たちの主張は絶対に真であるから、「友ではない者はすべて敵」となる。つまり、自分たちの意見に賛成しない者はすべて敵となる。彼らにとり、意見の一致を目指してオープンな議論に参加し、全員で協力して最適な解を見出す努力など、思いもよらないであろう。

 しかし、当然のことながら、無条件の同意を他人から強要され、「友ではない者はすべて敵」などと言われたら、私たちは誰でも、非常に窮屈な思いをする。そして、このような狂信者のことは、できるかぎり考えないようにするはずである。多くの日本人が沖縄について多くを語らないのは、狂信を忌避する自然な反応である。沖縄の「反基地」活動は、「差別」に対する反作用という観点からではなく、何よりもまず、狂信という観点から語られるべき事柄であるように思われるのである。


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