AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:生産性

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睡眠は日中の生産性に影響を与える

 連休が明けてからまもなく3週間になる。個人的なことになるが、この間ずっと、いくらか寝不足の状態が続いていた。

 次の本にあるように、睡眠というのは、それ自体としては、質や量を測定したり評価したりすることは難しいものであるらしい。

8時間睡眠のウソ。

 ただ、質、量ともに十分な睡眠がとれているかどうかは、目覚めているときの生活の質によって判定される他はない。目覚めているあいだの活動が生産的なものであるなら、それは、睡眠が質量ともに十分であることの証拠になるはずである。(だから、「質量ともに十分な睡眠をとるにはどうしたらよいか」という問いには答えられなくても、「質量ともに十分な睡眠がとれているかどうか、どうしたらわかるか」という問いに答えを与えるのは簡単である。)

睡眠が不足すると

 ところで、私自身は、睡眠時間を長く必要とする方である。1日に8時間は眠っていたい、いや、10時間でもかまわないとすら考えている。だから、基本的にはつねに睡眠に飢えている状態にある。

 今月に入ってから、1日平均5時間から6時間くらいしか眠ることができない日々が続いていたが、おそらく、そのせいで、最近は、日中の生産性が次第に落ちていた。

 今日も、朝早くから雑用を片づけていたのだが、午後になり、とうとう何も考えることができなくなった。そこで、仕事を中断してしばらく眠ることにした。

 睡眠をとり、そして、目覚めても、小人が働いて目の前の問題を片づけてくれるわけではない。ただ、よく知られているように、眠っているあいだ、人間の脳の内部では、目覚めているあいだに取り入れられた情報が整理される。したがって、問題の見通しがよくなっていると一般に考えられている。これは、受験生にとって寝不足が好ましくないと言われるときの根拠の1つである。

睡眠は最初に試みるべき解決策

 以前、次のような記事を投稿した。


「今日は何もかも上手く行かない」と感じたときの対処法 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

上手く行かないことが一日のうちに続けざまに起こることがある。予定していた会合が急にキャンセルになったり、書類にミスが見つかったり、仕事上の関係者の不手際のせいで面倒な雑用が急に飛び込んできたり......。このようなとき、その日にするはずだったことが片づかない


 私は、この記事で、深呼吸と筋トレの効用について書いたけれども、30分以上の時間を確保することができるのなら、生産性を回復するのにもっとも効果的なのは、少なくとも私の経験では、睡眠である。(本当に睡眠が不足すると、筋トレしようとしても、身体に注意を集中させることができない。)

 実際、私の場合、午後から夕方にかけて眠ったおかげで、体力と気力がいくらか回復したように思う。

 ただし、朝から仕事がある普通の平日の前日(通常は日曜日)には、昼寝をしない方がよい。というのも、長く昼寝すると、睡眠と覚醒のリズムが崩れて夜の睡眠が不足し、これが翌日の仕事に好ましくない影響を与えるおそれがあるからである。

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久しぶりに「デジタル断食」してみた

 しばらく前、「デジタル断食」を実行した。仕事のデッドラインに追われていたため、およそ1年ぶりである。

 私の職場が休みだった平日の24時間――正確には、前日の夜から翌日の朝までの36時間――を、パソコン、スマホ、タブレット(私は所有していない)、そして、テレビの電源をすべてオフにして過ごすことに決めた。当日、デジタル機器に一応分類されるもので電源が入っていたのは、自宅の固定電話だけである(が、実際には、一度も鳴らなかった)。

 以前に投稿した記事に書いたように、「デジタル断食」と言っても、特別なことは何もない。だたデジタル機器の電源をオフにするだけである。


24時間「デジタル断食」のすすめ 〈体験的雑談〉 : AD HOC MORALIST

週末の24時間をデジタル・デトックスに使う方法とその効用。

 当然、最初のうちは、手持ち無沙汰に苦しめられる。これもまた、次の記事に書いたとおりである。


無為を自分に強いることについて、あるいは「手持ち無沙汰」と生産性について 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

手持ち無沙汰の効用について哲学的に考える。

 「デジタル断食」の1日は長い。時間が経つのが遅いと感じられるのも原因の1つであるが、最大の原因は、パソコンやスマホをいじることで失われていた時間が私たちの手もとに戻ってくることにある。1日の多くの時間をパソコンやスマホの操作で無駄にしていることに気づき、「デジタル断食」のたびに愕然とする。

「デジタル断食」を実行すると、眠っていた生産性が刺戟される

 逆説的なことに、「デジタル断食」を実行し、外部からの刺戟を遮断すると、失われていた知的生産性が回復する。少なくとも、パソコンやスマホを前にしているときよりも、脳の活動が活発になっていることは確かである。

 私は、日中のほぼすべての時間を本を読んで過ごしたけれども、たとえ時間があっても、パソコンやスマホの電源が入った状態では、集中力が続かない。デジタル機器から離れただけで、1つのことに注意を向け続ける力が蘇ることは明らかであった。

 そもそも、ある程度以上の時間パソコンやスマホの画面を連続して眺めていると、脳波が睡眠時と同じような状態になることは事実として以前からよく知られている。ネットやスマホの使用に中毒性があると言われる所以である。パソコンやスマホをいじると脳の生産的な活動が抑制されるのは当然なのである。

 だから、解決すべき問題を抱えていたり、何かに関して行き詰まりを感じていたりするなら、デジタル機器から距離をとった状態で時間を過ごすことは、有効であるばかりではなく、必要ですらある。

 デジタル機器と完全に絶縁して生きることは、現代ではほぼ不可能であるかも知れないが、私たち一人ひとりの内部にあり、そして、意思決定において重要な役割を担うはずの「本能的なもの」あるいは「野生」を目覚めさせるためには、わずか1日でもよい、「デジタル断食」の実行は必須であるように思われるのである。

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優先順位を正しく設定することができないと

 今日、次のような記事を読んだ。

「地毛証明書」、都立高の6割で 幼児期の写真を要求も:朝日新聞デジタル

 記事を読んだ私の最初の感想は、「私には都立高校の教員は務まらない」である。

 私には、高等学校の教員の経験はない。だから、高等学校の教員の忙しさについては、余計な仕事は1つたりとも増やしたくない程度には忙しいということくらしかわからない。それでも、上の記事を読むと、暗澹たる気持ちなってしまう。

 そもそも、私には、髪の染色やパーマを校則によって禁止しなければならない理由がわからない。

 たしかに、髪を染めたりパーマをかけたりすることは、その仕上がりによっては、好ましくない場合がある。

 しかし、高等学校は義務教育ではない。生徒の生活指導がどうでもよいとは言わないけれども、生徒の頭髪が、校則に明記し、強制力をともなうような仕方で画一化を徹底させねばならないほど優先順位が高い問題であるとは思われないのである。

 自分のことを棚に上げて言うなら、上の記事を信用するかぎり、事柄の優先順位をみずから正しく設定する能力が現在の都立高校の多くに欠けていることは明らかであり、このような高等学校において、事柄の優先順位を正しく設定する能力を持つ人間が育つようには思われないのである。

無駄なルールが無駄な手間を要求する

 当然のことであるけれども、染色やパーマを校則によって禁止すれば、これとともに、校則が確実に守られているかどうか監視する手間がどうしても必要となる。

 「地毛証明書」を作成し、配布し、回収し、確認する……、一つひとつは大した作業ではないかも知れないけれども、染色やパーマが校則によって明確に禁止されている以上、これは省略することの許されぬ作業となり、全体として、本来ならさらに重要な仕事に当てられるはずの教員の体力や時間を際限なく奪い取って行くことになるはずである。

 すべての生徒に適用されるルールを設定することは、このルールが守られているかどうか監視する手間、そして、守られていない場合には無理やりこれに従わせる手間を省略することができない。そうしなければ、ルールは空文化し、無政府状態が出現するであろう。だから、ルールの数は可能なかぎり制限しなければ、ルールを守らせる手間ばかりが増え、学校は一種の刑務所になってしまうに違いない。

最初にすべきなのは、染色やパーマが好ましくない理由を生徒や保護者に対して説明し同意を得ることであるはず

 (現場を知らない人間が現実を無視して理想を語るなら、)都立高等学校がまずなすべきことは、限度を超えた染色やパーマが好ましくない空間があり、学校がその1つであること、教育現場を維持するためには頭髪に関する制限が必要であることを生徒や保護者に説明し理解させることであるに違いない。

 生徒を「受刑者」ではなく「ステークホルダー」として扱うこと、そして、ルールの趣旨に関する理解を生徒と共有するなら、新たなルールは、監視の手間を必ずしも要求しないはずである。

 上の記事にあるように、染色やパーマを禁止し「地毛証明書」などを提出させていることに、「生徒とのトラブルを防ぐほか、私立高との競争が激しく、生活指導をきちんとしていることを保護者や生徒にアピールする」以上の意味がないのなら、そして、教育との必然的な連関を生徒に対し合理的に示すことができないのなら、このようなルールは一刻も早く廃止すべきであると私は考えている。

 無駄なルールが無駄な手間を要求し、さらに、無駄な手間が必要なリソースを奪い取り、リソースが少なくなった分を新たなルールで補おうとして、さらに無駄な手間が発生する……、このような悪循環の中で、個人や集団の生産性はとどまることなく落ちて行く。「これをする必要が本当にあるのか」「このルールの優先順位はどの程度なのか」は、余計なことをせずに済ませるために、そして、生産性を上げるために私たちがつねに考慮すべき点であるように思われる。

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 以前、次のような記事を投稿した。


「手段としての男女共同参画」――功利主義的に考える : アド・ホックな倫理学

「男女共同参画」の両義性 もう何年も前から、「男女共同参画社会」という言葉を繰り返し目にするようになった。内閣府男女共同参画局のウェブサイトには、次のような説明が掲げられている。男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって



 この記事の内容を簡単に要約するなら、次のようになる。現代の社会、少なくとも日本の社会では、「男女共同参画」というものに関し、2つの必ずしも相容れない理解が併存し、ときに干渉し合っている。すなわち、「目的としての男女共同参画」と「手段としての男女共同参画」である。前者は、男性と女性が対等の立場で社会を作って行くことをそれ自体として普遍的な価値のあるものと見なす。後者に従うなら、女性の人権や生き方への配慮は、その「効用」(utility) という観点から評価されるべきであることになる。言い換えるなら、男女共同参画が社会全体の生産性を向上させ、民間企業の収益を増加させ、日本のGDPを押し上げる効果があるかぎりにおいて、女性の人権や生き方は優先的に考慮されることが必要であるというのが「手段としての男女共同参画」の内容である。

 今のところ、これら2つの立場は、明瞭に区別されてはおらず、むしろ、一方が達成されるなら、他方もまたおのずから現実のものとなるに違いないという期待が広い範囲において受け容れられているように見える。しかし、これは、甘い幻想である。形式的に考えるなら、両者のあいだに幸福な調和が生れる保証はどこにもない。反対に、少し冷静に考えるなら、「男女共同参画」が手段であるなら、それは、あくまでも限定的なものであり、したがって、男女の平等を損う可能性がつねにある。

 むしろ、この考え方に従うかぎり、人間の存在にはそれ自体としては価値はなく、人間は、「使える」「リソース」であるかぎりにおいて大切にされるべきものであるから、特定の状況のもとで男性よりも女性を優遇することが好ましい結果を産むという予想に何らかの妥当性が認められるなら、そのときには、男性の方が不当な不利益を被ること、つまり「逆差別」(reverse discrimination) が発生することもまた許容される。平等なるものの価値もまた、効用という観点から評価されねばならないからである。

 現実の社会では、「目的としての男女共同参画」のための政策と「手段としての男女共同参画」にもとづく政策が雑然と混在している。そして、そのおかげで、女性に対する差別は、少しずつではあるが、是正されている。また、「逆差別」は、それが認められる場面があるとしても、ある限度を超えると、何らかの仕方で抑止されるのが普通である。この意味では、法制度がそれなりに役割を担っていると言うことができる。たしかに、女性が生産性の極大化のために動員されるリソースであるにすぎないような社会というのは、考えようによっては、悪夢のような社会であるかも知れない。

 しかし、私たちが最終的に目指すところは、生産性の極大化でもなく、男女の形式的な平等でもなく、さらに別の何らかの福祉であり利益であり幸福であるはずである。そして、このような別の到達点から眺めるとき、「男女共同参画」なるものは、上に述べたのとは別の意味における「効用」を実現するための手段として私たちの前に姿を現すことになるであろう。


Lean Product Management

「時間管理が私たちの人生をダメにしている理由」

 今日、イギリスのガーディアン紙のウェブサイトで次の記事を見つけた。

Why time management is ruining our lives | Oliver Burkeman

 「時間管理が私たちの人生をダメにしている理由」という表題を持つこの記事は大変に長いのだが、その内容をごく簡単にまとめると、次のようにななる。

 産業革命以降、生産性の向上を目標として「時間管理」(time management) が試みられてきた。最初は、時間管理の対象は、製品を産み出すプロセスであったけれども、やがて、時間管理の範囲は、労働者一人ひとりの労働へと広がる。特に、19世紀末、フレデリック・テイラーがベスレヘム・スティール・ワークス社での実践にもとづいて労働者管理のシステムを開発してから、時間管理は、生産性向上の必要不可欠の手段と見なされるようになる。大雑把に言い換えるなら、労働から無駄を排除し、有限な時間の中に作業を効率よく詰め込むことが生産性向上の近道と考えられるようになったのである。20世紀後半以後に登場したいくつもの生産性向上のスキームーーGTDはそのもっとも有名なものである――はすべて、時間管理が生産性を向上させることを当然のように前提とするものである点において、テイラーの労働者管理法と何ら違いはない。しかし、20世紀末以降、「生産性」(productivity) や「効率」(efficiency) は、労働を評価する尺度であるばかりではなく、人生全体においてつねに考慮することが望ましい理想となり、この意味において「個人的」なものとなった。食事、余暇、デート、しつけなど、あらゆる点に関し「生産的」(productive) であることが追求されるようになり、生産性と効率が一種の強迫観念のようになったのである。しかし、人生から無駄を取り除き、Inbox Zeroの状態を実現しても、なすべきことから完全に解放されるわけではなく、むしろ、さらなるタスクと忙しさ、そして、一種の落ち着きのなさを生活に呼び込んだだけである。(Inbox Zeroとは、メールを受信箱に残さず、メッセージを受け取ったら即座に次の行動を起こすか削除するかのいずれかを選ぶことで生産性を向上させる方法である。この記事では、冒頭に、Inbox Zeroを提唱したマーリン・マン(Merlin Mann) のグーグルでの講演の様子が紹介され、後半では、同じマンが時間管理をテーマとする著作の執筆を宣言し、しかし、結局、執筆を断念した事情が記されている。)

ライフハックは人生を「楽しむ」ことを妨げる

 英語には「ライフハック」(lifehack) という言葉がある。これは、個人的な日常生活における生産性の向上を目指す試み全体を指し示すために使われているものである。ライフハックを形作るのは、作業を効率化し、作業に必要な時間を短縮し、そして、処理すべき他の新たな作業のために時間を確保するさまざまな工夫である。もちろん、ライフハックには、私たちの一人ひとりの生活の改善と人生の幸福が遠い目標として暗黙のうちに設定されているに違いない。

 日本やアメリカには、このライフハックについて著述を行う専従のブロガーやライターまでいる。生産性向上のティップスを考案し提案することを生業とするこのような特殊な人間が考えつくことは、同じような関心を持ち、同じような生活を送っている人間たちの役には立つのであろう。また、たがいのアイディアを褒め合ったり共有したりすることにもそれなりの意味があるのかも知れない。(「タスク」に対するフェティシズムを基礎とする疑似宗教のように見えないこともない。)しかし、このようにして産み出されたティップスは、平均的な生活を送る「普通の」人間の生活の質を改善することがないばかりではなく、仕事の効率化にすら大して役には立たないであろう。

 そもそも、上の記事が強調しているように、時間を効率的に使うことは、人生を幸福にするとはかぎらない。朝起きてから夜寝るまでの何もかもが「処理」の対象となり、さらに、睡眠すら効率的に生産的に処理されるべきものとなってしまったら、私たちが人生の中で通過するすべての時間は、未来のいずれかに時間が使われるべき何かのための準備として使われることになり、決して、人生を「楽しむ」ことができなくなってしまう。「楽しむ」ということは、何よりもまず、みずからの心を現在へと集中させ、1つのことをそれ自体のために行うことによって初めて可能となるものだからであり、「処理する」ことの対極に位置を占めるものだからである。


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