AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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やはり、私には東京が一番である

 「住めば都」という表現がある。どのような場所でも、やがては住み慣れ、居心地よくなるという意味である。しかし、私自身は、この表現の意味するところには同意しない。「住めば都」は、少なくとも私自身の経験には適合しないからである。

 地方を軽蔑しているわけではないけれども、東京で生まれ、東京で育った私にとっては、やはり、東京以上に居心地のよいところはない。今後の人生において、心境に何らかの変化があるかも知れないとしても、少なくとも現在のところは、私の都は東京以外ではありえないように思われる。

 東京生まれ、東京育ちで、東京以外に故郷と呼ぶことができる場所がない私は、東京以外の地域について否定的なことを口にしないよう、普段からできるかぎり心がけている。というのも、私のような「江戸っ子」が内心ではつねに田舎を見下していると、なぜかかたく信じている人が地方には多く、このような人々の神経を逆撫でしないよう注意を怠らないことは、地方に住む人々との間のコミュニケーションにおいて必須であるように思われるからである。

地方のあり方を東京との差異において規定すべきではない

 地方の人々が「東京の人間は田舎を見下している」と思うのは、彼ら/彼女らが自分の内面を勝手に相手に投影しているせいなのではないか、地方に住む人々自身、「住めば都」などと口では言いながら、本当は自分の言葉を信じていないのではないか、自分たちの住むところを東京との関係において「田舎」と規定し、両者を対立するものと捉えて勝手にひがんでいるのは、むしろ地方に住む人たちの方なのではないか……、地方に行くと、このように疑いたくなることが少なくない。

 以前、次のような記事を投稿した。


「田舎風」という隠語 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

田舎とは郊外である 私は、個人的には、田舎があまり好きではない。東京生まれ、東京育ちであり、故郷という意味での「田舎」を持たないからであるかも知れない。 私は、日本の田舎の風景もあまり好きではない。人里離れた山奥まで行けば事情は違うのであろうが、自動車を

 作られたモノの完成度の低さを「田舎風」と表現することは、成長や進歩の可能性を閉ざし、「おざなり」において居直ることを意味する。それは、洗練と完成の欠落という仕方でみずからを規定することを他ならない。これが上の記事の内容である。

「田舎者」とは、地方に住む者ではなく、内面的な鈍感において人目を惹く者である

 同じことは、モノだけではなく、人間についても言うことができる。すなわち、精神的な意味における洗練と完成への努力を放棄し、現状に居直ることにより、「田舎風」の人間となり、「田舎者」と呼ぶのがふさわしい存在となる。だから、「田舎者」は、礼儀知らずであり、道理をわきまえていないばかりではなく、場合によっては、「素朴」の仮面をかぶった「狡猾」を本質とする存在として「江戸っ子」の前に姿を現す。

 当然のことながら、人間やモノが空間としての地方に位置を占めているからと言って、それが必然的に「田舎風」であるわけではない。実際、地方に住む人々のすべてが田舎者であるわけではないし、同じように、東京には、田舎者はおおぜい暮らしている。「地方」は「田舎」から明確に区別されねばならないと私は考えている。

 人間が人間であるかぎり、完成への努力を放棄し、あるがままの状態における居直りが決して許されないことは確かである。つねに現状を克服し、未来の可能性へとみずからの身を委ねることが人間の人間らしさである。地方で暮らすことのうちに「おざなり」や「安直」へと人間を誘う何ものかがあるとするのなら、地方にとどまることは、万人に対し、このような誘惑に逆らい、自己超克への覚悟をを要求するはずである。

15, Obuse Station, Nagano, Japan
 先週の水曜日(2017年3月15日)、長野県の小布施町を訪れた。私は自動車を運転しないから、行きも帰りも、交通手段は鉄道である。東京駅から北陸新幹線で長野駅まで行き、長野駅で長野電鉄に乗り換え、小布施駅まで行ったのである。

 小布施駅から緩い上り坂の道を歩いて10分弱で街の中心に辿りつく。小布施町が「街並み修景事業」と名づける街づくりが進められたエリアである。

 たしかに、葛飾北斎の作品の展示施設である北斎館と和菓子屋の小布施堂本店を中心とする半径300メートルくらいの範囲では、統一した外観の家並みを見ることができる。(とはいえ、この街並みを構成する建物の大半は、観光関連の施設である。)

 また、小布施の「観光スポット」の大半は、この狭い範囲に集中しており、半日もあれば、すべて回ることができる。私自身、小布施に滞在したのは正味5時間くらいであったけれども、ひとりの旅なら、これで十分である。

 私が小布施に行ったのは、街並みを観察するためであり、これは、広い意味で自分自身の仕事の一部であった。
 たしかに、街の中心のごく限られた範囲では、建物の外観が和風に統一され、ある意味では美しい街並みが形作られていた。けれども、その外側は、基本的にはごく普通の田舎町であり、そこに広がっていたものは、観光地というよりも、むしろ、住宅地であり農地であり山林である。街の中心の一帯は、独特の人工的な雰囲気により、周囲から浮かび上がっていた。

 そして、北斎館を中心とするエリアとその周辺を歩き、そこにいた観光客を眺めながら、私は、ある疑問に逢着した。それは、必要に迫られているわけでもないのに、なぜ自分の住む街を離れて田舎町に出かけるのか、という疑問である。というのも――地元ので暮らす人々には非常に失礼な言い方になるけれども――小布施には、東京に住んでいる者に特に魅力を感じさせるようなものは、北斎の肉筆と北信五岳の眺めを除けば、特に何もないように思われたからである。

 私自身が東京生まれ、東京育ちであり、田舎というものを持たないせいなのかも知れないけれども、観光を目的に東京以外の場所、特に小布施のような小さな町に出かける理由がよくわからない。小布施は、この規模の田舎町としては、街づくりに非常に熱心であり、田舎町に特有のおざなりなところが目につくことはなかった。それでも、仕事に少しでも関連する具体的な課題がなければ、片道4時間かけて出かけて行くことはなかったに違いない。

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 東京を離れ、観光のためにわざわざ出かけるに値する街が日本のどこかにあるとするなら、それは京都だけであるに違いない。というのも、日本の都市はすべて、東京を模範と見なし、小型の東京、あるいは、東京もどきとなることを街づくりの目標としているが、京都だけは、東京を追いかけることなく、本質的に別の道を歩もうとしているからである。

 しかし、ことによると、私の問いの立て方が間違っているのかも知れない。すなわち、東京で暮らす者が小さな田舎町を観光を目的に訪れるのは、東京にはない魅力が田舎町において認められるからであるというよりも、むしろ、東京において出会われる何か不快なものが田舎町にはないと感じられるからであると考えるべきなのかも知れない。

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田舎とは郊外である

 私は、個人的には、田舎があまり好きではない。東京生まれ、東京育ちであり、故郷という意味での「田舎」を持たないからであるかも知れない。

 私は、日本の田舎の風景もあまり好きではない。人里離れた山奥まで行けば事情は違うのであろうが、自動車を運転せず、公共の交通機関と徒歩以外の移動手段を持たない私のような者が地方で実際目にするのは、「田舎」というよりも「郊外」や「片田舎」と呼ぶのにふさわしい空間であり、残念ながら、私には、緊張感を欠いた、しかも――よそ者の私にとっては当然のことながら――よそよそしいその空間の価値がよくわからない。したがって、(世間には、「田舎暮らし」に憧れる人がいるようであるが、)少なくとも今の私には、「田舎暮らし」というのは、あまり魅力的には思えない。自宅から1時間以内の場所に大型の書店があるわけでもなく、もっとも近いスーパーマーケットに行くのにすら自動車を使わなければならない生活というのが人間的であるようには思われないのである。

「田舎風」という居直り

 また、これも東京に住む者の偏見かも知れないが、私は、「田舎」と名のつく商品も好まない。実際、食品の名称で「田舎」の二文字が含まれているものには手を出さないようにしている。たとえば、田舎風の汁粉、田舎風の弁当、田舎風の蕎麦……。「田舎風」という表現は、製品の「おざなり」で洗練を欠いた仕上がり、完成度の低さに対する居直りの表現であり、このような居直りは、いわゆる「民芸品」にも同じように認めることができる。製品の仕上がりがおざなりであることの自覚が作り手自身にあるにもかかわらず、これをあえて「田舎風」と名づけて販売し対価を得ようとするという態度に、私は、何か気持ちのよくないものを感じるのである。

 同じ理由によって、私は、餡を用いた和菓子について「漉し餡」か「つぶし餡」か、いずれかを選ぶことができる場合には、必ず「漉し餡」、つまり小豆の皮が取り除かれたものを選ぶことにしている。というのも、餡の完成形態は「漉し餡」だからあり、「漉し餡」を標準とするとき、「つぶし餡」というのは完成度の低い田舎風のものと見なされねばならないからであり、さらに、「つぶし餡」には、完成度の低さに対する居直りが認められるような気がしてならないからである。

 なお、私は、(関東風の)「ぜんざい」に関し「栗(くり)ぜんざい」と「粟(あわ)ぜんざい」から選ぶことができるときには、断然「粟(あわ)ぜんざい」を選ぶ。(関西風の「ぜんざい」は、東京では「汁粉」と呼ばれている。)家族から「『栗(くり)ぜんざい』を有り難がるのは田舎者」と言われるの聞いて育ったせいもあるのかも知れないが、「栗(くり)ぜんざい」は、つねに何となく魅力に乏しいように感じられるのである。(とはいえ、なぜ「栗(くり)ぜんざい」が田舎風なのか、よくわからないのだが。)もっとも、東京でただ「ぜんざい」と呼ばれているのは、ほとんどの場合、「栗(くり)ぜんざい」であり、「粟(あわ)ぜんざい」が食べられるところは、決して多くはない。


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