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食事に制限のある病人を看護していると

 10年以上前、親族の看護のため、病院に2ヶ月近く泊まり込んだことがある。

 看護のために病院に毎日通うというのは、それまでにも経験があったけれども、病院に泊まり込むのは、そのときが最初――であり、今のところは最後――である。

 その親族の病気は、食事に関して厳しい制限があり、私は、入院前から在宅で半年近く付き添い、食べものの選択と調達に関して試行錯誤を繰り返していた。

 当然、普通のスーパーマーケットで売られているもの、普通の飲食店で提供されているものなどはほぼすべて、この病人には、そのままでは食べられない。口にすることができたのは、高カロリーの――当然、非常にまずい――流動食だけであった。

 そして、このような病人と一緒に生活していると、食べものを見る目が次第に変化してくる。何を見ても、「病人に食べさせられることができるかどうか」という観点から評価するようになってしまうのである。

 飲食店で普通に食事する人々を見るたびに、あるいは、コンビニエンスストアで普通の食品を買う人々を見るたびに、「ああ、この人たちは健康なんだな」という感想が心に浮かぶ。

 もちろん、普通に食事している人たちのすべてが健康とはかぎらない。それでも、最低限の健康を前提として提供される食べものをそのまま口にすることができるというのは、私の目には光り輝くような健康の証と映った。

普通の食事は最低限の健康を前提とする

 病院への泊まり込み――もう2度とやりたくない――から10年以上経つ。私が看護した病人は、すでにこの世にはいない。それでも、私は今でも、街を歩いていて飲食店の看板に記されたメニューを眺めるとき、そこに記された料理がその病人には食べられないことを確認していることに気づく。そして、そのたびに、きわめてまずい流動食しか口にすることができずに亡くなった病人に深く同情するとともに、普通に自由に食事することを私に許すみずからの健康に感謝する。

 街の普通の飲食店で普通に食事するためには、最低限の健康が必要であること、そして、世の中には、この最低限の健康を奪われている人が少なくないこと、看護の経験は、私にこのような点を教えた。食事を粗末にすることなく、毎回の食事を大切にするようになったのは、それからである。

 「丁寧な暮らし」は、私の大嫌いな言葉である。次のブログに記されているように、いわゆる「丁寧な暮らし」は、暇人の道楽でしかないと思う。

「丁寧な暮らし」とかしてる奴は滅亡しろよ : やまもといちろう 公式ブログ

 ただ、食事に関するかぎり、これをそれなりに「丁寧」に扱うことは、健康を維持するために、そして、何よりも、健康に感謝するために、決して無駄ではないに違いない。