AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:相対的貧困

Gourmet Food Court @Isetan - Shinjuku

 週に1回か2回、平日の昼間に新宿三丁目駅で地下鉄を降りることがある。そして、地上に出るときには、伊勢丹の地下1階を通り抜けて地上に出ることが多い。

 伊勢丹の地下1階の食品売り場、いわゆる「デパ地下」を通り抜けるとき、いつも感じることがある。それは、「どこが不景気なのだ」ということである。というのも、そこでは、1片が500円を超えるケーキや、100gで1000円近い惣菜が売られており、しかも、ときには、購入する順番を待つ客の行列が発生していることすらあるからである。バブルの再来ではないかと思うことすらある。

 たしかに、景気がよくないという話はいたるところから聞こえてくる。「個人消費が伸びない」「子どもの貧困が深刻である」「非正規労働者の賃金が上がらない」……、しかし、伊勢丹のデパ地下を歩いていると、この同じ社会には、経済的につらい生活を送っている人々とともに、高額な菓子や惣菜を大して吟味することもなく購入することができるほど経済的に余裕のある人々もいることがわかる。(新宿の伊勢丹が全国の百貨店において占める位置を考慮するなら、おそらく、伊勢丹のデパ地下の店頭にあるのは、デパ地下の中ではもっとも高額な食品ばかりであるに違いない。)

 私は、明日の食べものにもこと欠くような生活を送っているわけではない。だから、今の日本の中では、私は、どちらかと言えば恵まれた生活を送っていることになるのであろう。それでも、1片が500円のケーキを自分のために買おうとは思わない。たしかに、高級とは言えない菓子屋で売られている1個200円のケーキには期待することができない何か、値段にふさわしい何かが500円のケーキにはあるのであろう。それでも、小さなケーキ1個に500円も出すことは、私の金銭感覚が許さない。カネがないからではなく、少なくとも私にとっては、500円というのは、もはやケーキの値段ではないからである。

 とはいえ、激安を売りものにする近所のスーパーマーケットが伊勢丹のデパ地下と同じようにいつも混雑しているのを見るたびに、次のように考えるようになった。すなわち、社会全体に対し通用可能な金銭感覚なるものはもはやどこにもなく、「つつましい生活」「贅沢な暮らし」などの表現にかつては具わっていたリアリティも失われてしまったのかも知れないのである。現代では、何を「つつましい」と呼び、何を「贅沢」と評価するかという点に関し、社会的な合意が失われてしまったのであろう。

 生命を維持するために必要な最低限の食料すら手に入れられなくなるような状態――いわゆる「絶対的貧困」――に陥らないかぎり、生活に困窮しているとしても、他人の目には貧困と映りにくい。「相対的貧困は目に見えない」とよく言われるけれども、おそらく、相対的貧困が目に見えないのは、社会全体が漠然と共有する金銭感覚が失われたからであると考えるのが自然である。

 漠然と共有された金銭感覚がある状況のもとでは、誰かが貧乏であるかどうかは、職業、外見、カネの使い方などの観察にもとづいて比較的簡単に判定することが可能であるけれども、現在では、金銭感覚なるものからパブリックな性格、規範としての性格が失われ、他人が貧乏であるのかどうか、直観的に判定することはできない。生活に困窮している人々のことを気の毒と思わない者はいないであろう。しかし、このような人々がどのような金銭感覚のもとで自分の人生を眺め、世界を眺めているのか、相手に身になって想像することは、現代では途方もなく困難な作業になっているように思われるのである。


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 2016年8月18日のNHKの7時のニュースで取り上げられた貧困女子高生(いわゆる「貧困JK」)の問題について、膨大な意見がネット上にあふれている。ネット上の動きだけではなく、数日までには、「貧困たたき」に抗議するデモまであったらしい。

貧困たたき:新宿で緊急抗議デモ 作家の雨宮処凛さんらも - 毎日新聞

 しかし、この「貧困JK」問題は――少なくとも私が期待するような方向で――立ち入って取り上げられてはいないように見える。

  そこで、この問題が何を問いかけているのかを整理してみると、段階的に三つの論点が区別できることがわかる。

  1. 問題の女子高生は嘘つきなのか。また、 NHKの報道は捏造だったのか。
  2. 女子高生は本当に貧困なのか、それとも、自称「貧困」にすぎないのか。
  3. 貧困対策はいかにあるべきなのか。
 以下、一つずつ取り上げる。

(1)問題の女子高生は嘘つきなのか。また、NHKの報道は捏造だったのか。


 今回の件が話題になってからすぐ、次のような記事を見つけた。

子どもの貧困〜NHK報道の問題点
 この記事を書いたのは、杉田水脈氏である。この記事で杉田氏が記していることが正しく、女子高生が嘘をついているのであれば、 話は非常に単純である。つまり、嘘に対する罰を与え、嘘をつかせた首謀者を特定すれば、問題はすべて解決する。

 しかし、残念ながら、問題は、それほど単純 ではないと私は思う。(なお、高校生をここまでシンプルに「嘘つき」と断定する記事は他に見つからなかった。)常識的に考えて、女子高生が嘘をついているはずはないように思われる。また、杉田氏が暗示しているような「被害者ビジネス団体」の陰謀であるという可能性も低いと思う。
(ただ、今回の件を「被害者ビジネス団体」が利用する可能性は高い。)「女子高生は、自分が貧困ではないと知っていながら、貧困を自称した 」ということは、この女子高生の神経が正常の範囲にあるなら、まずありえないように見えるのである。

 映像は、全国の何百万人もの視聴者の目にさらされる。当然、そこには、悪意のある人間が一定数含まれている。そして、この悪意が閾値を超えると、 アラさがしが始まり、いくらでも叩かれる可能性がある。女子高生であるなら、当然、このくらいのことはわかっているであろう。したがって、自分が貧困であるという点に関して絶対の自信がなければ、NHKのニュース番組に出演するなどありえないと私は思う。女子高生は、自分のことを正真正銘の貧困であるとかたく信じていたはずである。

 しかし、もしそうであるなら、問題は「嘘つきに罰を与えればよい」というような単純なレベルを超えて、きわめて厄介なものになる。というのも、「貧困とは何なのか」という問題に否応なく直面しなければならなくなるからである。

(2)女子高生は本当に貧困なのか、それとも、自称「貧困」にすぎないのか。
  
  念のために言っておくなら、この女子高生が貧困に」陥っているとするなら、その貧困は、いわゆる「相対的貧困」と呼ばれるタイプの貧困である。これは、食うや食わずで生命の維持すらままならない状態を指す「絶対的貧困」からは区別されている。上の記事で杉田氏が「貧困」として想定するのは「絶対的貧困」の方であり、たしかに、今回の女子高生は「絶対的貧困」に陥っているわけではない。

 とはいえ、相対的貧困というのは、 きわめて曖昧な観念であり、これを「貧困」と呼ぶことに抵抗を感じる人は少なくないと思う。携帯電話を所有したり、漫画を購入したり、映画を観たり、外食で散財するだけの余裕があるなら、携帯電話の通信料を引き下げたり、食費を切り詰めたりして節約し、その分を学費に当てるというのが「正しいカネの使い方」ではないかという疑問は、職業を持つ大人の多くが持つはずである。あるいは、少なくとも、この女子高生のようなカネの使い方を続けていたら、カネの使い方が間違っているのではないかという疑問を他人に抱かせることは、職業を持つ大人なら誰でも見当がつくはずである。つまり、相対的貧困の正体は、カネの使い方に関するリテラシーの欠如であり、したがって、相対的貧困に陥っている人間は、貧乏なのではなく、頭が悪いだけであるということになる。

 この点を直截な仕方で指摘したのが次の記事である。

貧乏人は、お金の使い方を知らないから貧乏なのです。 : まだ東京で消耗してるの?

 とはいえ、「リテラシーが足りないから、不必要なことに散財してしまって、必要なことにカネが回らないのだ」という主張が正しいとしても、ここから、次のような問題がさらに生じることを避けられない。

(3)貧困対策はいかにあるべきなのか。

  第三者の目に、女子高生の、あるいは彼女の家族のカネの使い方が間違っているように映ること、言い換えるなら、支出の優先順位が転倒しているように映ることは確かである。

 しかし、カネの使い方に関するリテラシーを身につけさせれば問題が解決するわけではない。というのも、これは私に想像でしかないが、「カネの使い方が間違っているのではないか」「優先順位を考えなおした方がよいのではないか」という女子高生自身に素朴に問いかけても、彼女には、この疑問の意味が決して理解できないだろうからである。その理由は明瞭である。

 携帯電話を維持するために高額の通信費を支払ったり、漫画を買ったり映画を観たり、さらに外食で散財したりすることを、彼女は、贅沢などではなく、優先順位の高い「必要欠くべからざる支出」と判断しているはずからである。

 それは、見栄をはるためであるかも知れないし、「つながり」を維持するためかも知れない。「このような下らないことのためにカネを優先的に使うなんておかしい」と思うかも知れないし、私もそう思うが、本人にとっては、見ず知らずの他人から見たら「下らない」としか思えない支出の優先順位が高いのだから、何ともしようがない。

 したがって、次のツイートのように、女子高生を擁護して「ささやかな贅沢」くらいは認めるべきだと声高に叫ぶ自称リベラルも、「貧困たたき」に狂奔する人々も、女子高生のカネの使い方がつきつめれば合理的ではないという了解については一致しており、したがって、両者は同じ勘違いを共有していることになる。





 繰り返して言うが、女子高生の消費行動は、少なくとも彼女自身にとっては、断じて「ささやかなぜいたく」などではない。生活必需品に対する支出なのであり、パソコンよりも学費よりも優先されるべきものなのである。

 そして、このような事情のもとで姿を現すのは、次のような問題である。すなわち、間違ったカネの使い方が原因で貧困に陥った(と自称する/ように見える)人間は、社会による救済の対象になるのかどうか、 という問題である。

 非合理的な消費行動が原因で貧困に陥った者に必要なのは「カネの使い方に関するリテラシー」であって社会的な救済ではない、と考えることは可能であり、実際、今回の件について、ネット上にこのような主張が散見する。つまり、いわゆる「愚行権」を行使した者は、社会的な救済の範囲から除外してもかまわないということになる。

 しかし、困難な状況にある人々に関し、この状況が、非合理的な行動によってみずから招いたものであるのか、それとも、不可抗力によるものであるのかを判定することは容易ではない。しかも、何をもって愚行と見なすかという点についても、社会的な合意を形成することは困難である。愚行権を行使した者には救済措置はないという原則を適用するなら、たとえば、喫煙が原因で肺がんになった者の治療には健康保険が適用されず、競馬にカネをつぎ込んで破産した者には生活保護が支給されないことになる。だから、困難な状態が惹き起こされた事情について、私たちにはこれを問うことができない。(一旦これを問い始めると、際限のない議論が続くはずである。)

 どのような事情であっても、貧困に陥った者は救済せざるをえないということ、これは、 民主主義社会のコストであり、しかも、ある種の諦めにもとづくコストであるのかも知れない。


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