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 「あなたは今までに何人の最期を看取りましたか。」

 あなたがこの問いに「ゼロ」と答え、しかも、あなたの年齢が40歳以上であり、かつ、介護の経験がないのなら、あなたは、ある意味では幸せであると言える。(この場合の「最期を看取る」とは、臨終にいたるまで病人に付き添って看病することを言う。)

 もちろん、大家族の場合、一緒に暮らしていた者の最期を看取ることは、珍しいことではなく、むしろ、日常を構成する要素であるかも知れない。しかし、現在では、核家族化が進んでいるから、40歳以上でも、誰の最期も看取ったことがない人、つまり、(大抵の場合は高齢の)親族が病気にかかり、そして、亡くなるまでに何らかの仕方で立ち会った経験を持たない人は少なくないであろう。

 現在、私は40代後半であるが、これまでに3人の最期を看取ってきた。この世代としては多い方だと思う。(なお、私よりも年長で、私が生まれたときのことを知る親族は、今はもうひとりも残っていない。)たしかに、これは、貴重な経験であると言えないことはないが、それでも、私のごく個人的な感想としては、親族の最期を看取る行為は、現代では、精神衛生上必ずしも好ましいことではなく、可能であるなら、回避する方がよいものである。

 細部にわたることは一々書かないが、少なくとも、次のようなことは確かであると思う。

 つまり、病を抱えた親族の面倒を、何ヶ月か、あるいは何年か、ある程度以上の期間にわたって最後まで見続けるなら、あなたは、看病される者が病に負け、彼/彼女の「人間性」が試練にさらされ、やがてこれが剥落して行く場面にかなりの確率で否応なく立ち会うはずである。親しい者のそのような姿など目にしたくないと思っても、大抵の場合――あなたが看病しているのは、他に代わる者がいないからであることが多い――あなたは、その場から逃れる自由を奪われており、病院の病室において、あるいは、自宅において、彼/彼女の最後の姿を見守り続けるをえない。これは、大きなトラウマとなる。

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それほど病が篤くない段階で「お見舞い」に行ったり、臨終の場に立ち会ったりするだけであるなら、誰でも、故人の思い出を美しく心に抱くこともできるであろう。しかし、あなたが「最期を看取る」者であり、特に、逃げ場がない状態で看病を続けた者であるなら、あなたの記憶に鮮明なのは、病に苦しみながら人間性を少しずつ剥落させて行く者の姿であり、病室、手術、点滴、効果のない治療や処置、医者や看護師の(無)表情、検査結果を記した書類、X線フィルム、故人との言い争い、消毒薬のにおいなどであるに違いない。故人との暮らしが何十年にもわたるものであるとしても、また、その何十年かがかけがえのない時間であったとしても、あなたがさしあたり繰り返し思い出すのは、その年月であるというよりも、むしろ、時間的にもっとも近い過去の「看取り」とならざるをえない。かけがえのないはずの何十年かは、これによって封印されてしまう。最期を看取ることは、親しい者ほど避けるのがよいかも知れないと私が考える理由である。