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 今日は2017年7月17日、つまり「海の日」である。私の職場では、普段と同じように授業があったため、最寄り駅で電車に乗るまで、今日が祝日であることに気づかなかった。国民の祝日の数が多すぎるのである。


「国民の祝日」が多すぎる 〈私的極論〉 : AD HOC MORALIST

祝日は単なる休みの日ではない 2016年1月1日現在、わが国には「国民の祝日」が16日ある。すなわち、「元日」「成人の日」「建国記念の日」「春分の日」「昭和の日」「憲法記念日」「みどりの日」「こどもの日」「海の日」「山の日」「敬老の日」「秋分の日」「体育の日」「


 大学生と大学の教師にとって特にありがたくないのは、海の日、体育の日、成人の日のような移動祝日である。というのも、祝日が月曜日に集中すると、月曜日の授業回数が減り、授業回数を確保するため、これらの祝日が「授業実施日」となってしまうからである。今日は、全国のほぼすべての大学で授業が行われていたはずである。

 今日、授業が行われなかった大学があるとするなら、そのような大学は、たとえば、いずれかの土曜日か日曜日に、休みにした月曜日の授業を振り替えて実施するか、あるいは、8月に入ってから授業回数が不足した曜日の授業をまとめて実施するか、いずかの措置を講じることになっているはずである。

 そもそも、このような「惨状」が発生したのは、「半期に90分×15回の授業を必ず実施せよ、実施しなければ補助金を減らす」と文部科学省が全国の大学を脅しているからである。たしかに、文部科学省の省令である「大学設置基準」を文字どおりに受け取るなら、大学は、学生に単位を与えるために、90分×15回の授業を実施しなければならない。しかし、この大学設置基準は、1956(昭和31)年に定められてから何十年ものあいだ、厳格には守られてこなかった。私が学生のころなど、授業は半期に10回程度しか行われていなかったと思う。

 ところが、20世紀の終わりごろから、文部省の締めつけが少しずつ厳しくなり、そのため、大学の教師は、にわかに「教育労働者」化することになった。試験を含め、1年52週のうち32週を授業で拘束されてしまったら、本業である研究活動に深刻な遅滞が生じることは明らかである。

 文部科学省によれば、「授業回数が少ない」ことが「学生が勉強せず、学力が低下している」ことの原因であるらしい。だから――論理的にはまったく「だから」ではないのだが――「授業を大学設置基準どおりに実施する」ことで「学生が勉強し、学力が向上する」はずであった。

 けれども、授業回数を増やしたくらいで学生が勉強するようになるはずはなく、おそらく、そのせいであろう、文部科学省は、その後も、大学を「学校化」するため、謎としか思われないような措置を大学に次々と要求してきた。たとえば、「出席点」を学生に与えることを禁止してみたり(←学生が教室に来るのは当たり前だから、教室に身体を運んでくることに対して点を与えるのはおかしい、平常点は授業への貢献に応じて与えるべき、という理屈)、第1回の授業の内容をシラバスで「ガイダンス」と表記することを禁止してみたり(←「ガイダンス」は授業じゃない、という理屈)……。

 これらはすべて、余計なお世話である。大学というのは研究機関であるから、誰に何を教え、どのように教育するかは、各大学の完全な裁量に委ねられるべきであると私自身は考えている。「教授の自由」とは、キャンパスにおける教育の形態を含むはずだからである。大学の教師の大半は、同じように判断するに違いない。

 そもそも、これだけ長時間にわたり学生を教室に縛りつけていては、自分の知的関心を自由に追求する気分的な余裕が学生に生まれるわけはない。文部科学省が次に各大学に何を要求するのか、予想してみるのは面白いけれども、本当は、教室ばかりが学生の学ぶ場所ではなく、教室は、学生が学ぶ主な場所ですらない。私が学生時代に手に入れた知識のうち、その後に活かされたものの多くは、図書館や自宅での読書、他人との交流、映画館で過ごした時間などから与えられたものである。制度に従順な会社員を作ることを目的とするのでないかぎり、文部科学省が大学に要求することは、基本的にすべて、学生にとっても教師にとっても有害なことであるように思われるのである。