AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:笑い

Shinjuku suehirotei

トークイベントでスピーカーが冗談を言ったら、面白くなくても笑うべきか

 しばらく前、あるトークイベントを見物に行った。そして、行かなければよかったと深く後悔した。理由は簡単である。あまり面白くなかったのである。

 いや、正確に言うなら、「あまり面白くなかった」のではない。壇上で話しているスピーカーたちが聴衆を面白がらせることを意図して何回も冗談を言い、そのたびに、多くの聴衆が笑った。しかし、私には、その冗談のどこが面白いのか、サッパリわからなかったのである。

 アメリカで製作されるシットコムには、画面の外から笑い声を流し、笑うべき適切な瞬間を教えてくれる番組が少なくない。それと同じように、私の前後左右の聴衆が笑いという形で反応を示すときには、私もまた「笑うべき」なのであろう。実際、そのトークイベントでは、周囲の聴衆が冗談に笑うたびに、私もまた――サッパリ面白くはなかったけれども――無理に笑顔を作って冗談に付き合った。一人だけ仏頂面しているわけには行かないように感じられたからである。会場を埋める聴衆のほとんどが登壇したスピーカーのファンであり、面白くなくても笑顔を作らざるをえない空気がそこにあったことは確かである。

 そもそも、代金を支払って聴きに行くイベントの場合、面白くなければ笑わなくてもかまわないのか、それとも、面白くなくても、スピーカーへの礼儀として笑顔を作るべきなのか、私にはよくわからない。私が笑顔を作るよう努めるとするなら、それは、私自身がスピーカーであったら、聴衆の仏頂面は見たくないに違いないと想像するからであるが、この気持ちがスピーカーに共通のものであるとは言えないかもしれない。

 もちろん、一方において、カネを払って座席を買っているのだから、私が笑えないときには、私を笑わせるような冗談を言えないスピーカーの方に責任があると言えないことはない。

 けれども、他方において、私には合わない冗談を聴かされる危険を予想しなかったのは私の責任であり、その場に身を置く以上、面白くなくても笑顔を作ることは義務であると考えることも可能である。

笑えないのが怖ろしくて寄席に行けない

 このように考えているうちに、私は、次第に面倒になってきた。笑えなかったとき、面白くなかったときに、無理に笑顔を作ったり、面白いふりをしたりするのは、いかにも面倒である。しかし、周囲の聴衆が冗談に反応して笑っているのに、私ひとりだけが仏頂面しているのもまた、決して楽しくはない。結局、この種のライブのトークイベントには、講演であれ、トークショーであれ、基本的には行かないことにしている。

 映画やテレビドラマなら、笑えなくても気にならない。というのも、私が笑えなかったとしても、映画やテレビドラマのストーリーがそのせいで変化するようなことはないからである。だから、問題は、私の反応がスピーカーから見える状況、つまりライブのイベントで「笑えない」ことである。

 もっとも恐ろしいのは、「寄席で笑えない」ことである。寄席で落語を聴き、しかし、サッパリ面白くないとき、「笑うべきか、笑わざるべきか」という選択を迫られることになるのがつらいのである。

 私は、CDに収録された落語を聴いても、腹を抱えて笑うことは必ずしも多くはない。当然、寄席に身を置いたときに、「笑えない」危険は十分にある。特に、寄席というのは、本質的に笑える話を聴かせるための空間である。このような趣旨の空間に身を置き、それでも笑うことができなかったときのことを想像すると、足がすくんで寄席に近づくことができないのである。

Homeless in rain

 私たちは誰でも、ユーモアが人生の重要な要素であると考えている。もう少し正確に表現するなら、自分の言動がユーモアを帯びることに対し多くの人は価値を認めるとともに、他人の言葉やふるまいのうちに何らかのユーモアが現われることを歓迎する。現実の生活において「ユーモアのある人」あるいは「ユーモアがわかる人」が嫌われる可能性が低いことは確かである。

 ただ、ユーモアというものが伝えることの非常に難しいものであることもまた事実である。私が自分の言葉やふるまいにはユーモアがあると信じているとしても、このユーモアがユーモアとして他人に理解されなければ、それは、もはやユーモアではなく、コミュニケーションを阻碍するノイズにすぎない。実際、ユーモアは、ユーモアとして受け容れられる場合よりも、ノイズと見なされる場合の方がはるかに多いように思われる。だから、私たちになじみがあるのは、ユーモアが「通じる」ことによる心地よさよりも、ユーモアが「通じない」ことによる失望の方である。

 自分がユーモアであると思っているものが他人に受け容れられないことが多いとするなら、そのもっとも大きな原因は、ユーモアの多様性に求められねばならない。

 私たちは、相手のユーモアを理解することにより、実際的な必要を超えるある肯定的な関心を相手について抱く。相手のユーモアがわかるということは、相手に肯定的な仕方で関心を寄せていることの証拠であると言うこともできる。

 しかし、たとえば落語家が寄席に集まる聴衆のあいだに惹き起こす「笑い」には普遍妥当的な認識の表現としての側面がある――だから、何百人、何千人を同時に笑わせることができる――のに対し、ユーモアには、このような力はなく、コンサマトリーな会話においてオーラとして感知されるものにすぎない。ユーモアのうちに私たちが見出すのは、相手の「人柄」や「個性」のようなものにすぎないのが普通である。

 ユーモアが人柄や個性の表現にすぎないとするなら、そのタイプはかぎりなく多様であると考えざるをえない。あなたが自分の発言やふるまいにユーモアを込めても、これが相手に「通じる」ことなど期待しない方がよい。同じように、あなたもまた、相手が放つユーモアをノイズとして無視している可能性が高いが、だからと言って、あなたが「つまらない人間」であるわけではないし、相手が「ユーモアを解さない田舎者」であるわけでもない。あなたにはあなたのユーモアがあり、相手には相手のユーモアがあり、しかし、大抵の場合、両者が共鳴しないだけのことである。両者のユーモアが共鳴するのは、両者の生年月日が一致するよりも稀なことであるに違いない。

 だから、たがいのユーモアが通じる相手というのは非常に貴重であり、このような相手との出会いは、稀な幸運と見されるべきものであるように思われるのである。


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