AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:職業

Koijigahama

 人生で最初に仕事を持ってから、あるいは、初めて就職するときから、私たちは、「なぜこの仕事に就いているのか」「なぜこの職業を選んだのか」などの問いにたえずつきまとわれる。おそらく、人生を終えるまで、この問いから解放されることはないのであろう。

 もちろん、この問いに対する模範的な答えは、現実の仕事と「なりたい自分」の理想を太い直線によってつなぐことによって与えられる。また、このような答えが格好よい答えであり、この問いに格好よく答えることができる人生が格好のよい人生であると普通には考えられているようである。

 たしかに、自分のキャリアパスを簡潔に説明し、これに一貫したストーリーと意味を与えることは、就職面接を始めとして、自分について語る場面では必ず要求される課題である。けれども、この問いに対し誰でも格好よく答えることができるとはかぎらないこともまた事実である。私たちは、それほど格好のよい人生を送っているわけではないからである。躓いたり、逃げ出したり、小休止があったり、転進したり……。むしろ、この問いに対するあまりにも格好のよい答えを耳にすると、私のように性格があまりよくない人間は、不誠実と不自然のにおいをそこにかぎとってしまう。

 実際、私自身、なぜ今の仕事に就いているのかと問われても、明瞭な仕方で返事はできない。たしかに、キャリアパスのそれぞれの段階にはそれなりの岐路があり、それぞれの時点では、自分の能力と機会が許す範囲で最善の選択をしてきたつもりであるけれども、今からその歩みを振り返ってみても、首尾一貫した何かがそこに認められるわけでもなく、ミミズが這ったあとのような曲がりくねった軌跡が自分の背後に残るばかりである。曲がり角を曲がるたびに新しい眺めが広がり、その都度置かれた状況のもとで次の段階を考える……、これまでのところ、私の人生とはこのようなものであった。だから、「なぜこの仕事に就いているのか」とか「なぜこの職業を選んだのか」とか、このように問われても、私にできるのは、「次の最善の一手を考えて行動しているうちに、ここに流れ着いた」というような漠然とした答えだけである。ほとんどの大人は、この点に関しほぼ同じであろう。

 恐ろしく、また、胡散くさいのは、このような「漂着してしまった感」がまったくない場合である。自分の人生の格好悪い部分を忘れているのであろうか、それとも、子どものときから「なりたい自分」が明瞭であり、目標に1ミリの変化もないのであろうか、「なりたい自分」へと一歩ずつ確実に接近する直線的なプロセスとして自分の人生を描くことができる人間というのは、どこかに近づきがたいものがあるばかりではなく、人間的な面白みや誠実が決定的に欠けているような印象を周囲に与えるはずである。

 意見、理想、欲求は、時間とともに変化するものである。だから、自分の人生航路を迷いのない一直線として描くことができるなど、人間の自然に反するに違いない。むしろ、自分をうまくアピールすることができず、なぜ今の仕事に就いているのかを問われても格好よく答えられない方がよほど人間的であり、誠実であるように思われるのである。


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All they did was

 「趣味」(hobby) というのは、私を始めとして、趣味を持たない人間には一種の謎である。そこで、趣味というものが成立するための形式的な条件について少し考えてみたい。

 「何を趣味にしているのか」という問いに対し「趣味は仕事」などと答えて得意になっている人がいるけれども、大抵の場合、「趣味は仕事」という文は、「生活の糧を得るために従事している労働の内容が積極的な仕方で関心を惹きつけることで生活が充実している」ことの短縮表現であり、「趣味はない」という文の言い換えにすぎない。「趣味は仕事」などとうそぶく人が労働を趣味としているわけではないと考えるのが自然である。そもそも、常識に従うなら、趣味というものは、基本的に報酬とは無縁の活動であるはずであり、この意味においても、「趣味は仕事」は、上の問いに対する適切な答えではないと言うことができる。

 夏目漱石は、1911(明治44)年に行われた講演「道楽と職業」において、みずからの重要なキーワードである「他人本位」/「自己本位」を「職業」/「道楽」の区別に重ね合わせる。漱石によれば、他人の利益のために働いて報酬を得るのが職業であり、自分自身の満足のために従事するのが道楽となる。漱石のこの区分が妥当であるなら、「趣味」なるものは、道楽であるか、あるいは、少なくとも道楽の重要な一形態であると考えねばならない。

 趣味は、自己本位を本質と活動であり、他人本位の労働と対立する。趣味は、それ自体が目的であるような活動なのである。だから、知り合いを作りたくて碁会所に通う人にとって、囲碁は趣味ではなく、単なる口実にすぎないことになる。

 趣味は、自己目的的な活動、誰から強いられるわけでもない活動であり、自由な活動であり、このかぎりにおいて、人間に固有の活動である。なぜなら、動物は、生存の必要とは無縁の活動に従事する能力を欠いており、外的な状況によって強いられないかぎり何もしないからである。

 とはいえ、趣味が趣味として成立するには、職業に要求される以上の自発性、主体性が必要となる。趣味というのは、純粋の能動なのである。もの言わぬ自然、もの言わぬ素材に働きかけ、ときにはこれを変形し(盆栽、陶芸、料理など)、ときにはこれを制御し(乗馬、サーフィン、登山、楽器など)、ときには何かを取り出す(釣り、彫刻など)……、「趣味」と呼ばれるものに手先を使うアナログなものが多いのは、趣味が本質的に能動的なものであることを考えるなら、至極当然なのである。(同じ理由により、空いた時間にスマートフォンをダラダラといじることを「趣味」と見なすことはできない。さらに、テレビゲームが趣味となりうるかどうかということもまた、問題となりうるであろう。)

 「趣味を持つのはよいことである」「老後の生活を充実させるために何か趣味を持て」などという平凡な忠告には深い意味がある。趣味というのは、これが本当の意味における趣味であるかぎり、人間の人間らしさを表すものだからである。人間として生きるということは、何か趣味を持つことと同じであると言ってもよい。もちろん、絵画、彫刻、釣り、蕎麦打ち、盆栽、陶芸、囲碁、旅行などの趣味は、その本質的な部分に関しコンサマトリーであり非生産的である。(だから、その面白さを他人に説明するのが難しく、完全な門外漢が新たに参入し面白さを見つけるのは容易ではない。)しかし、純粋に自由で能動的な活動であるかぎり、どのようなものでも趣味となるのであり、自分なりの趣味を見つけることは、普通に考えられている以上に大切な課題であるに違いない。


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Image from page 440 of

 これは、下の記事の続きである。


人工知能の限界 あるいは遊戯のオリジナリティ : アド・ホックな倫理学

人工知能の能力は、人間に「できた」ことを精密に模倣する能力である 人工知能がどのような影響を社会に与えることになるのか、正確に予測することは困難である。しかし、現在の世界において「職業」と見なされているもののある部分が人工知能によって置き換えられるのは間


 理論的には、人生全体を遊戯にすることは簡単である。自分が遊戯――ゲームではない――として専念することができるようなものを人生の中心に置き、生活の残りの部分を、この遊戯に奉仕するように組み立てればよい。「遊戯として専念することができるもの」とは、他の何か――たとえば生活の糧を得ること――の手段であるかぎりにおいて意味を持つものではなく、それ自体が目的であるような活動である。

 しかし、「遊戯として専念することができるようなものを見つけ、これを中心に生活を組み立てればよい」という見解は、少なくとも2つの反論をただちに惹き起こすはずである。すなわち、

    1. 「遊戯として専念することができるようなものは仕事とは言えないし、そうでなければ食って行けない」という反論、そして、
    2. 「遊戯として専念することができて、それ自体が目的となるようなものを見つけるなど不可能である」という反論

である。たしかに、少なくとも現在の社会では、この反論は決して誤りではない。

 とはいえ、人工知能が高度に進歩し、多くの職業が人工知能によって担われ、言葉の本来の意味における「職業」ではなくなるとき、それにもかかわらず、人工知能には、私たちが実際に遊戯として専念しているものに関し、これを代理することは不可能である。

 現在では、職業というのは、遊戯となりうるどうかを基準として選ばれ、評価されているのではなく、生活の糧を得るための効率、あるいは、社会的な影響を基準として選ばれることが少なくない。しかし、社会における人工知能の役割が大きくなるとともに、職業選択の基準や職業の評価もまた、おのずから変化するはずであり、最終的に、遊戯として専念することができるようなものを何も持たない者は、生活の糧を何によって得ていたとしても、社会における位置を失うことを避けられないであろう。

 そもそも、人生というのは、何か人生の外部にある何かに奉仕するものではなく、それ自体が目的と見なされるべきものである。人生の外部には何もないのである。もちろん、「人生の目的」なるものを設定することは可能であり、また、好ましいことでもある。ただ、人生の外部に目的を設定することは、人生のそれ自体としての価値の否定に他ならない。「人生の目的」は、みずからの人生の内部に――必ず恣意も「自分だけのために」ではなく――求められるべきものであり、それにより初めて、人生は、みずからを目的とするもの、つまり遊戯となる。

 人工知能が社会において担う役割が大きくなることは、社会生活の外見をごく表面的に変化させるばかりではない。近い将来のことはよくわからないが、少なくとも遠い将来――何十年、何百年も先――職業や仕事というものの観念は、現在とはまったく異なるものになっているはずである。


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