AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:自動車

Stop The Bus

 

 私の自宅から最寄り駅までは、1キロ強の距離がある。

 私は、電車通学を始めた中学生のときから、今の家に住んでいるあいだはずっと、最寄り駅に行くのにバスを使うのを習慣としていた。

 しかし、最近は、バスにはできるかぎり乗らず、駅まで歩くようにしている。

 健康のためではない。

 この数年、バスの乗客が老人だらけになり、居心地が悪くなったせいである。

 実際、通勤のピークの時間帯を除くと、どこに行くのか知らないけれども、乗客の半分以上は老人になっている。無料パスがあるせいなのかも知れない。

 

Andante

 老人が多い空間は、老人以外の人間には居心地の悪いものとなることを避けられない。

 老人は、動きが緩慢だったり、周囲に対する目配りが不十分だったり、変化への対応が柔軟ではなかったりするからであり、さらに、老人たちを迎え入れるハード(設備)やソフト(人間)が主な「客層」である老人の行動に最適化されてしまうからである。

 

 「若い女性をターゲットとする文房具屋」「サラリーマンをターゲットとするラーメン屋」などがあることは誰でも知っている。

 また、これらの店では、主な客層の気にいるよう、さまざまな工夫が施され、主な客層以外への配慮に乏しいのが普通である。

 ただ、このような店は、基本的には、特定の趣味や嗜好を持つ客に最適化されているにすぎない。

 所得や生活環境に多少の共通点は認められるとしても、客の集団は、決して均質的ではない。

 何かを買うつもりがあるのなら、私が若い女性向けの雑貨屋に入っても、小さな違和感を覚えるだけである。

 

20120929_GGFCVB_0972

 これに対し、老人をターゲットとする乗り物や商店は、趣味や嗜好というよりも、心身の衰弱を原因とする老人固有の行動パターンに最適化される。

 そして、おそらくそのせいなのであろう、その空間は、不気味な均質性を特徴とすることが多いように思われる。

 これが、老人以外の人間には居心地が悪い空間になる原因である。

 老人とは言えない年齢の人間はすべて、精神衛生上、老人が集まる場所からは黙って立ち去るのが望ましいのであろう。

 

 老人の行動に最適化された公共の空間が「老人にやさしい」場所となることは確かである。

 しかし、老人にとって快適な場所は、「老人専用」の場所となってしまう可能性が高いのもまた事実である。

 昨日、次の記事を見つけた。

 

【高齢者交通事故】高齢ドライバーに「免許返納せよ」大論争 ネットで展開される極論

 

 最近、老人が自動車を運転して起こす事故が非常に多い。

 10年くらい前から数が増え始め、今では、少なくとも週に1度くらいは新聞で見かけるようになった。

 実際、上の記事にあるように、自動車事故全体の数が減少しつつあるときに、自動車事故の加害者全体に占める老人の割合は増えている。

 現状を放置するかぎり、この割合は、さらに増えるに違いない。

 将来、「完全自動運転」の技術が実用化されるなら、そのときには、事情が変化するであろうが、少なくとも今は、「免許を取り上げることは老人の行動を制限する」という理由により、公道上での老人の運転に制約を課さないと、反対に、老人の危険な運転に合わせて人間の行動の方が最適化され、不快な歪みを公共の空間のマナーに産み出し、本来なら不要なはずのコストを私たちに強いるようになる。

 


高齢運転者標識を活用しましょう!|警察庁

(null)



 

 運転免許に関連する制度を一切変更しない場合、老人の危険な運転から身を護るため、周囲に目配りしたり、ガードレールの内側を歩いたりすることに注意を払わなければならなくなる。

 何といっても、自動車を運転する老人というのは、枯葉マーク(=高齢運転者標識)を自動車に貼りつけ、自分の行動パターンが周囲を攪乱する可能性を認めることすら嫌がる存在である。

 外部からの強制力によって老人の行動を変えさせないかぎり、わが国の公道は、リスクの高い空間になることを避けられないはずである。

kokuto manju - wagashi

田舎とは郊外である

 私は、個人的には、田舎があまり好きではない。東京生まれ、東京育ちであり、故郷という意味での「田舎」を持たないからであるかも知れない。

 私は、日本の田舎の風景もあまり好きではない。人里離れた山奥まで行けば事情は違うのであろうが、自動車を運転せず、公共の交通機関と徒歩以外の移動手段を持たない私のような者が地方で実際目にするのは、「田舎」というよりも「郊外」や「片田舎」と呼ぶのにふさわしい空間であり、残念ながら、私には、緊張感を欠いた、しかも――よそ者の私にとっては当然のことながら――よそよそしいその空間の価値がよくわからない。したがって、(世間には、「田舎暮らし」に憧れる人がいるようであるが、)少なくとも今の私には、「田舎暮らし」というのは、あまり魅力的には思えない。自宅から1時間以内の場所に大型の書店があるわけでもなく、もっとも近いスーパーマーケットに行くのにすら自動車を使わなければならない生活というのが人間的であるようには思われないのである。

「田舎風」という居直り

 また、これも東京に住む者の偏見かも知れないが、私は、「田舎」と名のつく商品も好まない。実際、食品の名称で「田舎」の二文字が含まれているものには手を出さないようにしている。たとえば、田舎風の汁粉、田舎風の弁当、田舎風の蕎麦……。「田舎風」という表現は、製品の「おざなり」で洗練を欠いた仕上がり、完成度の低さに対する居直りの表現であり、このような居直りは、いわゆる「民芸品」にも同じように認めることができる。製品の仕上がりがおざなりであることの自覚が作り手自身にあるにもかかわらず、これをあえて「田舎風」と名づけて販売し対価を得ようとするという態度に、私は、何か気持ちのよくないものを感じるのである。

 同じ理由によって、私は、餡を用いた和菓子について「漉し餡」か「つぶし餡」か、いずれかを選ぶことができる場合には、必ず「漉し餡」、つまり小豆の皮が取り除かれたものを選ぶことにしている。というのも、餡の完成形態は「漉し餡」だからあり、「漉し餡」を標準とするとき、「つぶし餡」というのは完成度の低い田舎風のものと見なされねばならないからであり、さらに、「つぶし餡」には、完成度の低さに対する居直りが認められるような気がしてならないからである。

 なお、私は、(関東風の)「ぜんざい」に関し「栗(くり)ぜんざい」と「粟(あわ)ぜんざい」から選ぶことができるときには、断然「粟(あわ)ぜんざい」を選ぶ。(関西風の「ぜんざい」は、東京では「汁粉」と呼ばれている。)家族から「『栗(くり)ぜんざい』を有り難がるのは田舎者」と言われるの聞いて育ったせいもあるのかも知れないが、「栗(くり)ぜんざい」は、つねに何となく魅力に乏しいように感じられるのである。(とはいえ、なぜ「栗(くり)ぜんざい」が田舎風なのか、よくわからないのだが。)もっとも、東京でただ「ぜんざい」と呼ばれているのは、ほとんどの場合、「栗(くり)ぜんざい」であり、「粟(あわ)ぜんざい」が食べられるところは、決して多くはない。


↑このページのトップヘ