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我慢には、定期的な棚卸しが必要

 人生には、我慢しなければならないことが多い。人生は、我慢の連続であると言うこともできる。

 しかし、我慢を続けているうちに、何のために我慢しているのか、その本来の意義が見失われ、我慢が惰性になることが少なくない。身体に対する痛みのように、それ自体としては麻痺することが決してないものを除くなら、大抵の場合、我慢を続けるうちに、我慢の対象となっているものに対する受動的な姿勢が固着し、我慢しているという自覚すらなくなってしまうことがある。

 このような自覚なき我慢は、私たちを消耗させるばかりではない。それは、性格を歪め、他人に対する態度を歪め、ものの見方を歪めてしまう。だから、椅子に坐って何時間か仕事を続けたら、立ち上がって背伸びをするのが健康にとって好ましいことであるのと同じように、我慢の自覚を取り戻すためだけにでも、自分が何に耐えているのか、定期的に点検することは、精神の健康にとって必要な作業であるように思われる。

何を期待して我慢しているのか、あらためて考えてみる

 たとえば、あなたが親しい知り合いから何かの仕事を頼まれ、この仕事を引き受け、そして、ある程度の期間にわたって続けてきたとする。ところが、この仕事は、時間的に体力的にも金銭的にも、あなたにとってかなりの負担であり、さらによくないことに、この仕事の内容に意義を認めることができないとする。

 あなたがこの我慢を冷静に吟味するなら、次の点がただちに明らかになるはずである。すなわち、あなたがこの仕事を我慢して続けている理由はただ1つ、それは、あなたの親しい知り合いから頼まれたからであり、この仕事をやめることにより、その知り合いとの関係が損なわれる惧れがあるからである。

 このような場合、あなたが考えるべき点は2つある。

    • 1つは、仕事を断ることにより、問題の知り合いとの関係が本当に損なわれてしまうのかどうかという点、
    • もう1つは、その知り合いとの関係が損なわれることがなぜ困るのかという点である。

 あなたが自分自身の時間や体力や金銭を犠牲にして仕事を続けていることを知り合いが承知しており、かつ、あなたの犠牲に報いてくれるのであるなら、あなたが自分の生活の一部を犠牲にすことは正当であるかもしれない。しかし、あなたの犠牲が一方的なもの――つまり、本来の意味における犠牲――であるなら、あなたの我慢は完全に無意味であり、あなたは、この仕事が原因で強いられた我慢をただちに清算し、自分自身のためになることに人生を使うべきである。あなたの我慢が知り合いに対する「貸し」として計上されているのは、あなたの心の中だけだからであり、仕事を依頼した知り合いは、あなたが我慢していることすら承知していないはずだからである。

 あなたには、あなたにとって自然なものの味方、あなたにとって自然な他人に対する態度、あなたにとって自然な性格というものがある。そして、あなたの人生は、あなたにとって自然なあり方を実現するために、そして、あなたにとって自然なあり方を枠組みとして組織されるべきものである。自覚なき我慢が人生において有害なのは、これがあなたにとっての「自然」を不知不識に腐蝕させてしまうものだからなのである。