AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:自由

SNSが民主主義を破壊する

 ソーシャル・ネットワーキング・サービス(social networking service, SNS)が私たちの注意を惹くようになったのは、2008年ごろのことではないかと思う。特に、中東と北アフリカの一部のイスラム諸国において2010年に始まった民主化闘争(いわゆる「アラブの春」)以来、SNSのインフラとしての肯定的な役割について語られることが多くなったように思う。

 けれども、これもまた、記憶を辿ることによって誰でも確認することができるように、時間の経過とともに、SNSの否定的な作用、特に、「思考停止に陥った衆愚の扇動の道具」としてのSNSが話題になることの方が多くなってきた。社会の分断を産み、フィルター・バブルを産み、偽ニュースを産み、ドナルド・トランプを大統領にしたのは、他ならぬSNSである。これは、以前に投稿した次の記事で取り上げた点である。


共生の悪夢と社会の「融和」 : AD HOC MORALIST

昨日、次のような記事を見つけた。「学歴」という最大の分断 大卒と高卒で違う日本が見えている 高等学校卒業が最終学歴である人々と、大学卒業が最終学歴の人々とのあいだに、社会に対する見方に関し大きな隔たりが生れ、しかも、たがいに相手が社会をどのように見てい



虚偽の拡散と心理戦 : AD HOC MORALIST

11月にアメリカの大統領選挙が終わったころから、「偽ニュース」(fake news) という言葉を目にする機会が増えた。特に、いわゆる「ピザゲート」事件以降、広い範囲において偽ニュースに対する懸念が共有されるようになったように思われる。偽ニュース、小児性愛、ヒラリー


自由と民主主義は、それ自体として1つの秩序

 私たち日本人が現に享受している民主主義、そして、民主主義の前提としての「言論と表現の自由」は、私たち一人ひとりに対し「何でもあり」を許すものではない。


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 自由と民主主義は、秩序からの解放を意味するのではなく、反対に、それ自体が厳重に管理されるべき1つの秩序なのである。だから、この秩序を破壊する可能性のあるものを断固として斥けることは、望ましいことであるばかりではなく、私たち一人ひとりに課せられた義務ですらある。SNSの害悪が明らかになりつつあるのなら、当然、自由と民主主義を守るため、これは規制されねばならないはずである。

 SNSの規制は、言論と表現の自由の制限をいささかも意味するものではない。なぜなら、言論と表現の自由とは、秩序ある民主主義に従属するものであり、公共の福祉を促進しない無際限の自由とは相容れないものだからである。これは、日本国憲法第12条にも明記されている点でもある。

「公共の福祉」という歯止めの消失と衆愚の台頭

 もともと、インターネット上に作り上げられた言論空間は、すべての言説が断片的で文脈を欠いた「短文」へと粉砕され、これが同じ平面に並べられていることを特徴とする。したがって、サイバースペースでは、真理と虚偽は一切区別されることがなく、断片の海から何を拾い上げ、何をどのように組織するかは、各人の判断に委ねられている。

 しかし、この自由を適切に行使することのできるのは、今も昔も、ごく少数の人間に限られている。実際、SNSを手段として発信される「短文」の評価は、さらに困難である。したがって、大半は、単なる大衆ないし群衆として、自由を与えられているという自覚すら持たぬまま、これを悪用ないし濫用しているにすぎない。

 かつて、「公共の福祉」という観点から「語ることが許されていること」と「語ってはならぬこと」を峻別(しうると確信)し――つまり、メディア・リテラシーを具え――これら2つのうち前者のみを発信していたのは、発信の手段に実際にアクセスすることができる少数の者たちだけであった。そして、発信するための物理的な手段を持たぬ多数の者たちは、大抵の場合、少数の者たちから発せられた言論を黙って受け止め、ときには口頭で、ときには日記や書簡の形で意見を述べるだけであった。このような意見は、「公共の福祉」の観点から取捨選択されたものではなく、あくまでも、私的な感想にすぎず、当然、社会の表面に現れることもなかった。

 ところが、SNSの普及は、このような私的な言論を野放しにすることになった。SNSが社会に害悪を与えるのは、これが「何でもあり」と誤解された自由の悪用ないし濫用を可能にする手段だからである。

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沈黙し、慎重に考える美徳

 Facebook、Twitter、そしてLINE……、SNSに氾濫する言葉は、量という点で見るならほぼすべて、文字にするに値しないナンセンスであり、統計的な処理という圧搾機にかけることにより辛うじて社会的な意味を持つノイズとその複製にすぎない。

 ノイズにつねに曝され、思考の連続と集中をたえず妨げられるこのような状態から産み出される文化がどのような歴史的な価値を獲得するのか、これを決めるのは、もちろん、現在の私たちではなく、来るべき時代の世界を作る者たちである。したがって、私は、この点について沈黙したいと思う。けれども、1つ確かなことがあるとするなら、まさにこの「沈黙」すること、自分が文字にしようとしている事柄が本当に語るに値するものであるのか慎重に考えること、古来の格言「語ることは銀であり、沈黙することは金である」(Reden ist Silber, Schweigen ist Gold) ことこそ、私たち現代人が学びなおさなければならない真理であるに違いない。

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忘却は責任ある主体の地位を脅かす

 人類は、その誕生から現在まで、つねに社会を作ってきた。たとえ実際には社会から離れ、孤立して生活している者がいるとしても、その生活は、つねに完全に社会的であり、他人に対する何らかの態度を表現するものとならざるをえない。

 すべての人間は、社会的な存在であるかぎりにおいて、何らかの責任を負い、その責任に対応する自由を与えられている。つまり、社会というのは、私たち一人ひとりがある程度以上の責任を負う主体であることを前提として初めて成り立つものなのである。罪を犯すと罰せられ、罪の責任を引き受けなければならないのは、「罪を犯さない自由」なるものが私たちに認められているかぎりにおいてであり、「罪を犯さない自由」が与えられていない場合、自分の罪に対し責任を負うことが不可能である。たしかに、「自由はないが、責任はとらされる」あるいは「責任はとらなくてもかまわないが、自由は認められている」などという事態が出現したら、それは、誰の目にも不正常と映るに違いない。

 社会が自由を享受し責任を負う主体からなるものであるという理解を前提とするかぎり、「責任」(responsibility) を負う状態にあることこそ、社会を構成する主体にとってもっとも重要であることになる。つまり、周囲からの呼びかけや問いかけに対しつねに正しい仕方で「応答」(response) する「能力」(ability) こそ、社会における主体の主体である所以なのである。

 したがって、社会が維持されるためには、私たち一人ひとりに課せられた応答の遂行は、外的な事情が原因で起こるあらゆる障害や干渉から守られねばならないものとなる。応答の遂行が何らかの事情により妨げられることにより、当の人間の主体としての地位が脅かされるからである。そして、このような障害や干渉のうち、特に怖れられているものの1つが「忘却」である。今日の予定を忘れる、部下の名前を忘れる、妻との約束を忘れる、自宅の電話番号を忘れる、あるいは、自分がどこで何をしたかを忘れる……、記憶の欠損が好ましくないものと受け止められるのは、これが社会生活を現実に混乱させるからであるというよりも、むしろ、本質的には、責任を負う主体の地位を脅かすものだからであると考えねばならない。社会的な存在としての人間にとり、忘却は最大の敵なのである。

記憶は、応答の必要に迫られて作り出されるもの

 とはいえ、忘却は、誰のもとにも訪れる平凡な出来事である。それどころか、現実には、私たちは、何らかの必要に迫られて覚えているものを除き、すべてを忘れてしまう。いや、正確に言うなら、私たちの記憶に残るのは、社会的な「応答」に必要なものだけである。記憶とは、「応答」のため、応答の文脈の内部においてその都度形作られるものであると言うことができる。記憶は、社会的な意味や文脈の内部においてのみ記憶であり、社会的な意味や文脈にふさわしく忘れることができる能力と一体のものなのである。

 忘れてしまうというのは、人間の精神衛生に不可欠の機構であり、「何もかも記憶している」「何も忘れない」などということは不可能である。目に映ったものを文字通り「すべてを覚えている」人間がいるとするなら、それは、事実上、何も覚えていないのと同じことである。というのも、このような人間には、自分の視覚や聴覚が捉えた映像に意味を与え、輪廓のある具体的な「情報」や「記憶」へと分節することができないはずだからであり、五感に対する無差別の刺戟がノイズの洪水となって意識を浸しているだけであるに違いないからである。自分の体験に意味を与え、社会的な存在としてのみずからのあり方――つまり、社会的な存在にふさわしい行動――へとこれを結びつけるには、取捨選択し、忘れることが必要となる。この意味では、私たち一人ひとりが社会の内部において負っている責任と社会から与えられている自由は、ともに、記憶された情報量に依存するものではなく、むしろ、記憶を作り出す力としての忘却の能力を前提とするのである。

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