5/52 Grimm

互酬性の原則が完全に成り立つなら、他人に親切にすればするほど私の生活は楽しくなる

 人間の行動には「互酬性」というものがあると一般に考えられている。つまり、私が誰かから親切にされると、私の方もまた、私を親切にしてくれた者に対し親切にふるまおうとする傾向があるのである。ただ、私は、相手に親切にすることにより、親切を「返す」のではなく、本質的には、私に親切に接してくれた相手に私が施す親切は、本質的に新しい親切と見なされるべきものである。

 厳密に考えるなら、互酬性というのは、誰かへの親切が親切への応答を惹き起こすことではなく、親切から新たな親切が産み出されることである。互酬性が親切の交換であるなら、それは、1回かぎりで完結し、連鎖することがないはずである。しかも、相手に対する私の親切は、本当の意味における親切ではなく、単なる返礼にすぎぬものとなってしまう。この点は、ネガティヴな方向における互酬性を観察するなら、誰でもすぐにわかることである。親切が新たな親切への刺戟になるように、誰かのふるまいが私にとって攻撃と見なすにふさわしいものであるなら、私は、反撃という仕方でこれに報いる。しかも、攻撃と反撃の連鎖は、断ち切ることが困難である。このような事実は、互酬性の背後にあるものが単なる「交換」ではないことを雄弁に物語っている。

 互酬性がいつでもどこでも例外なく成り立つ原則であるなら、楽しい人生を送る秘訣はただ1つ、目の前の他人に対し、考えうるかぎりの親切を施すことである。私が他人に親切にふるまうなら、親切にされた者は、この親切を刺戟として、さらなる親切を産み出して行くはずだからである。

深く考えず、少しだけ行動する

 今年の春から、私は、ある実験をひとりで始めた。何かに困っている他人が目の前にいるとき、手伝いができそうなら、それが見ず知らずの相手であっても、手助けを申し出てみるという実験である。

 目の前の困っている人を助けるなど、「実験」と呼ぶほどのことでもないと思うかも知れないが、「干渉しない」ことを信条としてきたこれまでの私にとっては、これは、生活の原則の大転換に当たる。

 もちろん、私は、「小さな親切運動」のような大がかりな慈善やボランティアに従事するつもりはない。私の「小さな親切」は、あくまでも、目の前の事態に対し反射的に介入するだけのものであり、

    1. 何をすれば相手が満足するか明らかであるような状況のもとで、
    2. 私の自由になる時間、知識、能力、権限などの範囲で問題の解決に貢献することができる場合にのみ

目の前の他人に助けを差し出すささやかなものである。解決が困難である場合、あるいは、どのように手を差しのべれば相手が喜ぶかハッキリしない場合、目の前に問題があることが明らかであるとしても、私は介入しない。

 大切なことは、あれこれと考えず、即座に行動することであり、また、親切をその場で実行することができないときには、介入しないことである。相手に対する親切には限度がない。親切にしようと思えば、いくらでも親切にすることが可能である。しかも、私がいくら時間や体力を費やしても、それが相手にとって必ず親切になるとは限らない。

 じっくりと考えてから行動するとき、私は、その行動の価値をどうしても予測してしまう。つまり、自分の行動の意義をあらかじめ自分で決めてしまうのである。そして、このような事前の予測や評価は、「自分の行動の正当化」を促し、自分で自分の行動を正当化してしまうと、相手から予想外の反応が戻ってきたり、問題が解決されなかったとき、私はこれに大きな不満や怒りを抱くことになる。だから、心穏やかに親切を実行するには、正当化を避けることが必要であり、正当化を避けるためには、結果や意義について考えをめぐらせ始める前に親切を差し出してしまうことが必要となる。この春から始めたささやかな親切の実験により、このような行動が自然にできるようになることを私はひそかに期待している。