AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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ヨーロッパの植民地だった国々は、伝統の断絶とアイデンティティの分裂に直面している

 外国の文化はどのように受容されるべきか。この問に関し、わが国には、ある特別な答えを与える権利があるように思われる。

 近代においてヨーロッパ諸国の植民地となった地域では、それぞれの地域の伝統は、あるいは消去され、あるいは無視された。中南米、東南アジア、サハラ以南のアフリカの諸国がこれに当たる。

 もちろん、これらの国々において、植民地化以前の文化が完全に消滅してしまったわけではないけれども、それは、ヨーロッパ諸国がこれらの国々に無理やり押しつけた言語や文化に特徴を与える「偏り」以上のものではないように見える。ヨーロッパの旧植民地の多くでは、旧宗主国の言語が現在でも公用語であり、この場合、植民地になる前に使われていた言語は外国語と同じである。

 何よりも深刻なのは、多くの地域において、植民地化される以前に用いられていた言語が消去されたという事実である。ヨーロッパの植民地だった国々が、伝統の断絶とアイデンティティの分裂に苦しめられていることは、V.S.ナイポールの作品群を俟つまでもなく、誰が考えても明らかであろう。

日本は、ヨーロッパの植民地だったことがない

 これに対し、わが国は、ヨーロッパのいずれかの国の支配下に入ったことが一度もない。このことは、古代以来、文化に大きな断絶がなく、また、同じ言語が(変化が激しい言語であるとは言え)使われ続けてきたことを意味する。(さらに、日本語以外の言語が公用語になったこともない。)

 したがって、ヨーロッパ以外の多くの国とは異なり、外国の文化について、日本は、自国の文化に「吸収する」形でこれを摂取してきた。言い換えるなら、外国の文化は、つねにいくらか「日本化」されてきたのである。

 日本が中国の文化を摂取したのは、中国から押しつけられたからではなく、これが日本人にとり役に立ちそうなもの、面白そうなものだったからである。同じように、16世紀以降にヨーロッパと接触するようになってからも、日本人が外国から受け取ったのは、何らかの効用が認められるものだけである。これは、ヨーロッパの植民地だった国々からわが国をへだてる決定的に重要な特徴である。

「いいとこどり」は文化の生産性の証

 これまで、わが国は、外国の文化を、日本人にとって価値あるものであるかぎりにおいて、日本人にとって必要なかぎりにおいて受容してきた。実際、ヨーロッパ諸国の植民地となったことのないわが国には、「外国文化を日本的な仕方で受容する」権利がある。つまり、日本人には、ヨーロッパやアメリカの文化を、現地の人間が受け止めているとおりに受け止める義務などないのである。実際、日本人は、この権利を十分に適切に行使してきた。このことは、古代から現代までの日本文化の歩みを辿ることにより、簡単に確認することができる。

 ある文化の歴史的な価値は、そのオリジナリティにあるのではなく、過去の文化あるいは外国の文化を摂取し、これを新しいものへとまとめ上げる力量にある。この点は、以前に投稿した次の記事に書いたとおりである。


もしすべての日本人が漢文の勉強をやめたら : AD HOC MORALIST

昨日、次のような記事を見つけた。NEWSポストセブン|百田尚樹氏「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」│ ここで語られていることがどの程度まで真面目なものであるのか、私には判断ができないけれども、百田氏が冗談を語っているのではないとするなら、それは


 文化が生産的であるとは、外国文化を(見方によってはおざなりな仕方で)「いいとこどり」し、これを完全に消化し同化してしまう力を具えていることである。そして、この意味では、日本文化は、少なくともこれまでのところ、きわめて生産的であり続けたと言うことができる。

 しかし、現在、政府は、英語を小学生に勉強させたり、大学を「グローバル化」したりすることにより、アメリカが全世界に押しつけたものを「丸ごと」引き受けることを国民に求めているように見える。これは、日本に固有の「いいとこどり」の伝統とは相容れない試みであり、明治初期の日本政府による滑稽な欧化政策――その象徴が鹿鳴館である――を想起させるものである。

 幸いなことに、明治の欧化政策は、大した痕跡を日本の社会にとどめることなく終息した。しかし、現在の政府が国民に求める「グローバル化」により、日本文化の健全な生産力は、深刻な仕方で傷つけられるかもしれない。

 日本には、外国文化を自分の好きなように受容する権利がある。この点を再確認し、「いいとこどり」の伝統を全力で守ることは、現代の日本人の課題であるに違いない。

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言葉が1つしかない世界

 しばらく前、次のような記事を読んだ。

YO!の1語のみでやり取りするアプリが斬新すぎると話題!

 Yo.とは、スマートフォンで”Yo”というメッセージを交換するためのアプリである。送ることができるのは、”Yo!”の一語とその音声だけであるらしい。(だから、一度使い始めたら、その後は、何らかの文字を入力するプロセスがないのであろう。)

 上の記事に記されているように、一語のみによるコミュニケーションは、きわめて高度な技術を必要とする。闇雲に”Yo!”を送っても、これは、コミュニケーションにならないからである。

 「ありがとう」も「おはよう」も「さようなら」も「嫌い」も「1+1=2」も「明日の13時に渋谷で待ち合わせ」も、すべて”Yo!”と表現する他はない。これは、あらゆる文を代理する記号なのである。

 そこで、”Yo!”以外の語をコミュニケーションで使うことができなくなったとき、何が起こるかを想像してみた。

 このアプリ以外に連絡手段がないとき、送り手に工夫することが許されるのは、送る相手とタイミングだけである。だから、”Yo!”だけでコミュニケーションを成り立たせようと思うなら、私は、”Yo!”を送ろうとする相手が、どこで何をしているのか、何を考えているのか、正確に予想しなければならない。つまり、ちょうどよいタイミングで相手に”Yo!”を届け、”Yo!”が代理しうる無数の文から、こちらが期待するものを選んでもらうために、相手のことを徹底的に知ることがコミュニケーションにとって必須となる。同じように、”Yo!”を受け取る側もまた、相手がなぜ”Yo!”を送ってきたのか、相手の身になって想像しなければならない。これは、コミュニケーション能力を向上させる訓練として非常に有効であるに違いない。

“Yo!”だけのコミュニケーションは思考を滅ぼすか

 もっとも、”Yo!”の一語によるコミュニケーションが支配的になるとするなら、それとともに、”Yo!”以外の語は次第に使われなくなるはずである。もちろん、単語が実際に使われなくなるとしても、現実を分節するための枠組としての言語が消滅するわけではないが、膨大な単語を使いこなす能力は次第に失われて行くことは確かであり、複数の単語を使って何かを表現することは、複雑な楽器の演奏に似た特殊な記号の操作と見なされるようになるであろう。

 しかし、本当に”Yo!”の一語しか使われなくなったとき、その状況を「言語が使用されている」と考えることができるであろうか。というのも、ソシュールとともにラングの本質を「差異」に求めるなら、(アクセントもイントネーションも同じ)ただ一語しか単語を持たない言語は、言語と見なすことはできないことになってしまうからである。(もちろん、身振りも使えないということが前提である。)

 さらに、言語が思考の分節の枠組であるなら、一つひとつの”Yo!”を説明するためのメタ言語を想定しないかぎり、「”Yo!”言語」(?)は何ものも分節しないことになるから、そこには思考そのものが不在であるということにもなるであろう。

 それとも、たとえ”Yo!”しか使うことが許されないとしても、思考することは可能なのであろうか。そして、考えることが可能であるとするなら、私たちは、そのとき、何を考えるのであろうか。

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