AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:記憶

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会葬者に歌を聴かせたいと思う人間の気持ちを想像してみたが

 「自分が死んだら、葬式で自分の好きな歌を流してもらいたい」という希望を持つ人が少なくないようである。もちろん、好きな歌なら何でも流すことができるわけではなく、歌によっては著作権との関係で、会場で流すと対価を要求されることがある。しかし、今は、著作権のことは話題にしない。話題にするのは、「好きな歌を流してもらいたい」という希望そのものの意味である。

 ところで、「自分の葬式で好きな歌を流してもらいたいか」という問いに対する私自身の答えは「否」である。だから、自分の葬式に集まってきた会葬者たちに好きな歌を聴かせたいという希望を持つ人の気持ちが、私にはわからない。

葬式の主役は故人ではなく遺族

 もちろん、会葬者たちに自分の好きな歌を聴かせることを求めるのには、それなりの理由があるのであろう。だから、このような希望が不当であると言うつもりはない。

 ただ、葬式というのは、本来、死者のためのイベントではなく、本質的に生者のためのイベントである。私が世を去ったときに行われるかもしれない葬式は、「〔私の名前〕の葬式」ではあっても、私は決して主役ではなく、葬式の主役は遺族なのである。だから、私の好きな歌が遺された親族の希望によって流されるのなら、これには何ら問題がないけれども、これが私の意向にもとづくものであってはならないように思われる。


この世は死者のためではなく生者のためにある : AD HOC MORALIST

Pierrick Le Cunff  以前、次のような記事を投稿した。死者との対話 : AD HOC MORALIST歴史は死者のものである 「人類はいつ誕生したのか。」この問いに対する答えは、「人類」をどのように定義するかによって異なるであろう。ただ、現代まで大まかに連続している人類の


葬式が大規模になるほど、故人の人となりを知らない会葬者が増える

 会葬者が全部で10人くらいしかいない小規模な葬式では、会場にいる者の大半が親族や友人であり、このような状況のもとでは、故人について立ち入った情報があらかじめ共有されているに違いない。だから、故人が好きな歌は、故人を偲ぶよすがになる可能性がある。

 これに反し、会葬者が1000人を超えるような大規模な葬式では、会葬者の大半は、故人の一面しか知らず、また、未知の側面を葬式の場で知ることを望んではいないと考えるのが自然である。そもそも、会葬者の中には、故人と面識がない者すら珍しくないはずである。そして、このような状況のもとでは、「好きな歌」に代表される故人の人となりに関する情報は、会葬者にとり単なるノイズにすぎぬものとなる。(遺族と面識のない会葬者にとっては、遺族の存在すらノイズとなりうる。)

 葬式で自分の好きな歌を流すことを望むのなら、葬式の規模にはおのずから制限が設けられねばならない。つまり、歌がノイズにならない範囲の親しい者たちによる閉じたイベントとすべきである。

死者の記憶は生者の負担になる

 故人のことをよく知らない会葬者の多くが葬式に集まるのは、故人を偲ぶためであるというよりも、むしろ、故人のことを忘れ、記憶の負担を軽減するためであると言えないことはない。私のことを何らかの仕方で知るほぼすべての者たちの耳に、私が世を去ったという知らせは、私を忘れてもかまわないという合図として届くはずである。

 私が誰かの記憶に残るとするなら、それは、葬式で聴かされた歌によってではなく、私が生前に世のために成し遂げた何ごとかによって、おのずから残るものではなければならないように思われるのである。

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忘却は責任ある主体の地位を脅かす

 人類は、その誕生から現在まで、つねに社会を作ってきた。たとえ実際には社会から離れ、孤立して生活している者がいるとしても、その生活は、つねに完全に社会的であり、他人に対する何らかの態度を表現するものとならざるをえない。

 すべての人間は、社会的な存在であるかぎりにおいて、何らかの責任を負い、その責任に対応する自由を与えられている。つまり、社会というのは、私たち一人ひとりがある程度以上の責任を負う主体であることを前提として初めて成り立つものなのである。罪を犯すと罰せられ、罪の責任を引き受けなければならないのは、「罪を犯さない自由」なるものが私たちに認められているかぎりにおいてであり、「罪を犯さない自由」が与えられていない場合、自分の罪に対し責任を負うことが不可能である。たしかに、「自由はないが、責任はとらされる」あるいは「責任はとらなくてもかまわないが、自由は認められている」などという事態が出現したら、それは、誰の目にも不正常と映るに違いない。

 社会が自由を享受し責任を負う主体からなるものであるという理解を前提とするかぎり、「責任」(responsibility) を負う状態にあることこそ、社会を構成する主体にとってもっとも重要であることになる。つまり、周囲からの呼びかけや問いかけに対しつねに正しい仕方で「応答」(response) する「能力」(ability) こそ、社会における主体の主体である所以なのである。

 したがって、社会が維持されるためには、私たち一人ひとりに課せられた応答の遂行は、外的な事情が原因で起こるあらゆる障害や干渉から守られねばならないものとなる。応答の遂行が何らかの事情により妨げられることにより、当の人間の主体としての地位が脅かされるからである。そして、このような障害や干渉のうち、特に怖れられているものの1つが「忘却」である。今日の予定を忘れる、部下の名前を忘れる、妻との約束を忘れる、自宅の電話番号を忘れる、あるいは、自分がどこで何をしたかを忘れる……、記憶の欠損が好ましくないものと受け止められるのは、これが社会生活を現実に混乱させるからであるというよりも、むしろ、本質的には、責任を負う主体の地位を脅かすものだからであると考えねばならない。社会的な存在としての人間にとり、忘却は最大の敵なのである。

記憶は、応答の必要に迫られて作り出されるもの

 とはいえ、忘却は、誰のもとにも訪れる平凡な出来事である。それどころか、現実には、私たちは、何らかの必要に迫られて覚えているものを除き、すべてを忘れてしまう。いや、正確に言うなら、私たちの記憶に残るのは、社会的な「応答」に必要なものだけである。記憶とは、「応答」のため、応答の文脈の内部においてその都度形作られるものであると言うことができる。記憶は、社会的な意味や文脈の内部においてのみ記憶であり、社会的な意味や文脈にふさわしく忘れることができる能力と一体のものなのである。

 忘れてしまうというのは、人間の精神衛生に不可欠の機構であり、「何もかも記憶している」「何も忘れない」などということは不可能である。目に映ったものを文字通り「すべてを覚えている」人間がいるとするなら、それは、事実上、何も覚えていないのと同じことである。というのも、このような人間には、自分の視覚や聴覚が捉えた映像に意味を与え、輪廓のある具体的な「情報」や「記憶」へと分節することができないはずだからであり、五感に対する無差別の刺戟がノイズの洪水となって意識を浸しているだけであるに違いないからである。自分の体験に意味を与え、社会的な存在としてのみずからのあり方――つまり、社会的な存在にふさわしい行動――へとこれを結びつけるには、取捨選択し、忘れることが必要となる。この意味では、私たち一人ひとりが社会の内部において負っている責任と社会から与えられている自由は、ともに、記憶された情報量に依存するものではなく、むしろ、記憶を作り出す力としての忘却の能力を前提とするのである。

Kumamoto Earthquake

 去年(2016年)は――あるいは、「去年も」というべきであろうか――いろいろな災害があった。熊本地震(4月12日)のような単純な自然災害もあれば、博多での道路陥没事故(11月8日)や糸魚川での大火災(12月22日)のように、どちらかと言えば人災に属するものもあった。そして、これらの災害は、現地に居合わせた人々、あるいは、現地にゆかりのある人々の記憶には深く刻まれたことであろう。

 とはいえ、たとえば私のように、上に挙げた3つの災害のいずれの被災者でもなく、また、知人が災害に巻き込まれたわけでもないような者にとっては、大きなニュースになった出来事という以上の印象はなく、実際、この記事を書くにあたり正確な日付をネットで確認しなければならなかった。当事者以外の人間にとり、災害の印象は、それほど薄いのである。

 何人の方が亡くなろうと、何軒の家が破壊されようと、そのような規模には関係なく、災害の記憶は、時間の経過とともに急速に風化することを避けられない。

 実際、1年365日のうち、どの日をとっても、時間を遡ると、過去に何らかの災害が起こっていることがわかる。すべての日は、何らかの災害の記念日、しかも、当事者が存命しているような比較的最近の災害の記念日なのである。(政府が過去5年に激甚災害に指定したものだけでも、30件近くになる。つまり、2ヶ月に1度は激甚災害が発生しているのである。)すべての災害を万人が記憶にとどめるなど、到底不可能なのである。

 たとえば、「2月11日」という日付を目にして、何の災害の日であるかすぐに答えられる人がいたら、それは、この災害の当事者の方か「災害マニア」(?)のいずれかであろう。(答えは下を参照。死者24人を出した大規模な火災であった。)

ホテル大東館火災 - Wikipedia

 私たちは誰でも、自分の身に起った厄災、あるいは、家族や親しい知人が巻き込まれ、自分にも影響が及んだ厄災は、非常によく覚えているが、自分に大きな影響がなかったものは、すぐに忘れてしまう。自分が当事者であるかどうかは、厄災の記憶において決定的に重要な要素となる。どれほど身勝手と受け取られようとも、他人のことはすぐに忘れてしまうものなのである。

 以前、次のような調査結果がニュースになった。

原爆投下日、7割が正確に答えられず NHK世論調査

 広島の原爆投下が8月6日であり、長崎の原爆投下が8月9日であることは、日本人なら誰でも知っているべきであるばかりではない。おそらく、これらは、世界史的な意義を持つ日付であるに違いない。原爆の被害に遭った方々なら、あるいは、広島や長崎出身の方々なら、これを答えられないなど、ありうべからざることであるように思われるはずである。しかし、これほど重要な日付であっても、自分が当事者でなければ、人間は簡単に忘れてしまう。(原爆が投下された日を答えられないとするなら、敗戦記念日を正しく言うこともできないかも知れない。)まして、阪神・淡路大震災や東日本大震災の日付など、あと30年も経てば、9割以上の日本人が答えられなくなっているであろう。

 厄災の大きさに関する客観的な指標などというものはなく、人は誰でも、自分が巻き込まれた厄災をつねに過大評価し、自分とは無縁のところで起こったものは、つねに過小評価する。これは、どれほど努力しても是正することの困難な傾向である。

 厄災の記憶の風化は、非常に残念なことではあるが、それとともに、人間の自然に属することであり、必然である。「忘れるのはけしからん」「薄情者」「決して許さん」などといくら叫んでみても、それは無駄な努力というものであろう。

 被害者、被災者になった人々の試練は、厄災に耐えることだけではない。厄災の記憶の風化、そして、厄災の記憶をただひとりで抱える孤独もまた、このような人々が耐えなければならない試練なのである。(今から30年後、東日本大震災で被災した地域を訪れる観光客の大半は、3月11日が何の日であるか忘れているであろう。また、そのかなりの部分は、かつて東日本大震災なる大地震があったという事実すら知らないかも知れない。しかし、被災者、被害者は、これから、このような「薄情」な人々と付き合って行かなければならないのである。)


9-18 sunset Tokyo

 今から何年か前、次の動画を見た。

Neil Pasricha: ニール・パスリチャ:「Awsome(最高)」の3つの要素

 日常の何気ない「最高」なことを記録する意を語るこの動画は、TEDで行われてきたスピーチの中でも特に有名なものの1つであり、観たことのある人は少なくないであろう。(NHKでも放映されたらしいが、私は観ていない。)なお、”awesome”は、「畏敬の念を起こさせる」という意味の形容詞であり、会話では、日本語の「すごい」「素敵」などに対応する表現として頻繁に使われている。この動画で想定されているのは、後者の用法である。

 もちろん、動画で言及されているブログ1000 Awesome Thingsもある。

1000 Awesome Things - A time-ticking countdown of 1000 awesome things by Neil Pasricha

 どのような人間の生活にも、1日に1つくらいは小さな”awesome”があり、それに気づくことにより幸せを感じることができるのは確かである。たとえば、私は、昨晩遅く寝る前に作り、一晩寝かせたカチャトーレ(cacciatore=イタリア風の鶏肉のトマト煮込み)を、今朝、起き抜けに味見し、味がしっかり決まっていることを確認した。しばらく前に作ったときには、気が抜けたような味になり、手直しが大変だっただけに、これは、今日の私にとっては、間違いなく1つの”awesome thing”である。

 とはいえ、人間の行動は、万事が上手く行くことを前提とするものであるから、適切に、何の問題もなく、期待どおりにすべてが推移して行くことは、私たちの注意を惹かない。小さな”awesome”は、一瞬で忘れられる運命を免れないのである。私たちの注意を惹き、私たちの記憶に遺るのは、失敗したもの、故障したもの、停滞しているものである。だから、放っておくと、私たちの記憶は、上手く行かなかったこと、不快なことで一杯になってしまう。

 ”awesome”を記録するとは、事実ではなく、気分や感情を記録することである。しかも、できるかぎり時間を措かずに記録しなければならない。私たちは、自分の体験を前後の事実、似たような事実と関連づけることで周囲の世界に秩序を与え、合理的な行動を可能にする。しかし、小さな”awesome”は、放っておくと、時間の経過とともに他の事実と関連づけられ、整理されてその輝きを失い、個性のない平凡な事実になってしまう。1つひとつの小さな体験を、単なる実用や必要から切り離し、それ自体として受け止める態度は、”awesome”を体験しこれを記録するための前提なのであり、”awesome”を見つけたら、その場でこれを記録しなければならないのである。


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