Unconscious of being watched

書いたものにもとづいて再構成された人柄は、現実の人柄とはかなり異なる

 歴史上の有名な作家や思想家の書簡集を読んでいると、手紙の書き手の人柄が何となくわかる。とはいえ、書いたものを手がかりに再構成された人柄は、書き手の実際の姿とは少なからず異なるものであるに違いない。兼好法師は、『徒然草』において、本を読んでから著者に会うと必ずガッカリするという意味のことを語っているけれども、たしかに、自分が想像していたのとはかなり違う人柄を目の当たりにして驚いたり落胆したりすることは少なくないであろう。

 幸か不幸か、文化史の場合、善人や好人物がそこに名を遺すことは滅多になく、平均よりも性格が悪いのが普通である。書簡集、日記、自伝の類を手がかりにして再構成された歴史上の人物には、カリスマや特殊な魅力が十分に具わっているとしても、彼ら/彼女らが、親しく付き合ってみたい相手には見えない場合が多いことは確かである。

自分が公表した文章のみを手がかりに自分の人柄を再構成してみる

 それでは、私がこれまでに公表した文章、手紙、メールのみを手がかりに、書き手である私の人物像を心に描くなら、私はどのような人物として姿を現すであろうか。生身の私をまったく知らない誰かになったつもりで、活字になった文章や、このブログや、手紙やメールを読み、書き手の人柄を想像してみるのである。これは、面白い思考実験であるように思われた。

 当然のことながら、私は、自分自身のことを基本的に善人であると信じている。誰でもそうであろう。そうでなければ、心穏やかに生活するなど不可能であるに違いない。

 けれども、私が遺した言葉のみを手がかりに再現される「私」は、現実の私とはかなり異なる。実際、今から20年前――電子メールを使い始めたころ――に自分が書いた文章や手紙を読み返し、私は、暗澹たる気持ちになった。というのも、これらの文字から浮かび上がる「私」というのは、自分の本心を決して打ち明けない人間であるか、あるいは、内面が非常に空虚な人間であり、しかも、他人に対し不必要に気どったおかしな態度をとる人間だからである。今の私なら、かつて書いたものから浮かび上がる「私」とは決して付き合いたいと思わない。

 今でも、私にはあまり人望がないけれども、昔は、嘘をついているわけでもないのに、信用や信頼がまったくなく、つねに胡散くさい目で周囲から見られていたのをよく覚えている。当時の私は、この事態を不本意として受け止めていたけれども、当時の「私」を今から眺めるなら、やはり、周囲の反応にはそれなりの理由があったことがわかる。

 自分では自分に誠実であるつもりであっても、やはり、私は、自分を欺いていたのであろう。自分に対して誠実にふるまうには、誠実な態度を取ることができる「本当の私」を目指し、「偽りの私」を繰り返し克服する運動にその都度あらかじめ身を委ねていることが絶対に必要である。というよりも、このような努力を続けることが誠実の意味である。この点は、以前、次の記事に書いたとおりである。


「本当の私」というものはないのに、なぜか「偽りの私」はある : アド・ホックな倫理学

街を歩いていると、自分が「見世物」にされているという感覚に襲われることがある。これは、たくさんの人々のあいだにone of themの匿名の存在として埋没している状態から私ひとりが引きずり出される感覚である。たとえば、周囲の人間がすべて、私が何者であるかを知ってい

 20年前に自分が書いた文章を読み、そこに何の違和感もない者がいるとするなら、それは、完全に誠実な――つまり「無垢」な――人間であるか、あるいは、誠実になるための努力を最初から放棄している――つまり「絶望」している――人間であるかのいずれかであると考えねばならないが、普通の生活を送っている普通の人間なら、20年前に自分が書いた文章のうちに、耐えがたい自分を再発見するはずである。また、現在の私の自己認識というものが、決して私の実際の姿を捉えることができないこともまた、よくわかるに違いない。

歴史上の人物の偉大さは、あとになってからわかる

 何年も前、エッカーマンの『ゲーテとの対話』を読んだ。よく知られているように、ゲーテの作品が高く評価されているのに反し、著者としてのゲーテについては、同時代の評判が必ずしも好ましいものではなかった。だから、19世紀初めのドイツにタイムスリップし、エッカーマンが記録する晩年のゲーテに直に会ってみても、その人物からよい印象を受けることはないかも知れない。

ゲーテとの対話 改版 上

 しかし、『ゲーテとの対話』に描かれるゲーテ、つまりエッカーマンの目に映ったゲーテは、かぎりなく魅力的であり、後世のたくさんの読者がその知的な刺戟に満たされた談話に与ることを夢想したのは自然なことである。ゲーテの口から出た言葉、ゲーテによって書き遺された言葉は、ゲーテ自身の意向とは関係なく、その人物の偉大な真相を暴露しているように思われるのである。(本当に誠実であるとは、人物の真相が偉大であるとともに、この偉大な真相をみずから認識していることであり、さらに、この偉大な真相をみずから認識していることが真の偉大であるということになるのであろう。)