Medieval Crime Museum

古典とは文化的再生産の規範として繰り返し参照されるべき作品のこと

 書物の中には、「古典」に分類されるものがある。「古典」という言葉を目にすると、ただちに「文学」を連想するのが自然であり、それにはそれなりの理由があるが、古典に分類される作品は文学ばかりではない。音楽にも、落語にも、漫画にも、映画にも古典に分類される作品がある。(高校では、いわゆる「古文」で書かれた文学作品が単に「古典」と呼ばれてきた。そのせいで、日本人のあいだでは、「古典」と「文学」のあいだ一種の観念連合が成立しているのかも知れない。ただ、この事実は、「古典」と「文学」という2つの観念のあいだに認められる強い結びつきの主な理由ではないが、この点は、ここでは話題にしない。)

 ただ、以下では、話を簡単にするため、文学の読書に範囲を限定する。

 古典というのは、大抵の場合、それなりに古い時代に成立し、その後、時間の荒波に抗して現代まで読まれ続けてきたもののことを指す。本来は、古代に成立し、文化的再生産の規範となりうる文学作品だけが「古典」と呼ばれていたけれども、その範囲は少しずつ広がり、現在では、近代に成立した作品の中にも古典と呼ばれるものが少なくない。

 どのジャンルにおいても、古典というのは、それぞれのジャンルの歴史的奥行きを示すとともに、作品の生産において繰り返し参照されるべき規範となるようなものである。だから、文学は、その歴史が複雑で豊かであるのに応じ多くの基準から選ばれた多くの古典を持っているけれども、たとえば「アニメ」や「自己啓発」の場合、古典の名に値する作品は少なく、また、新しい。「アニメ」や「自己啓発」が大した歴史を持たないジャンルだからである。

 つまり、古典に認められてきた価値というのは、さしあたり、文化を再生産する者たち、「クリエイター」にとっての価値であり、読者にとっての価値ではないことになる。

古典は「読むべき本」ではなく「読みたくなるはずの本」である

 それでは、直接に文化的な再生産に直接には携わらない者にとり、古典の受容がどのような意味を持つのか。(もちろん、読書は、決して情報の受動的な吸収ではなく、むしろ、能動的に作品を解釈しこれをみずからのものとして引き受ける行為であるから、単なる読者であっても、読書を通じて文化的再生産のサイクルに間接的に参入してはいる。)

 古典を読むことが望ましいと考えられているのには、いろいろな理由がある。たとえば、「規範となる作品に優先的に触れることにより、読書を正しい方向へと導くことができるようになるから」「豊かな人生を送るための智慧がそこに見出されるから」などの教育的な理由は、誰もがすぐに思いつくものであろう。実際、これらが全面的に間違いというわけではない。

 ただ、古典にどれほど価値があるとしても、たとえば現在の平均的な高校生や大学生にとり、『源氏物語』や『カラマーゾフの兄弟』が面白い作品であるはずはなく、このような作品を無理に読ませようとすれば、「古典=退屈」という不幸な観念連合が成立し、永遠に修正することができなくなるおそれがある。

 むしろ、古典については、これが読書の入口で読むべきものではなく、終着点に位置を占めるものであり、古典が面白いと感じられるようになったら、それは、本格的な読書家であることの証拠であると考えるのが自然であり、気楽でもあるように思われる。

 好きな本、読みたい本、面白そうな本を片っ端から読んでいると、読んだの本の量に比例して、手に取る本のレベルが自然な仕方で少しずつ上がって行く。つまり、面白いと感じられる本のレベルが少しずつ変化するのである。(必ずそうなる。)面白さの感覚に忠実な仕方で読書を続けていると、やがて、それなりの読書経験がないとついて行けないような本に面白さを感じられるようになる。そして、最終的には、「面白そうである」という理由で古典に手が伸びるようになる。(その意味で、古典というのは「珍味」によく似ている。)

 古典に分類される作品に与えられるべきであるのは、「万人が読むべき」という位置ではなく、「読書を続けることで、いずれ自然に読みたくなるはずの本」という位置である。古典が古典であるとは、その面白さが作品が成立した時代や環境に依存しないことを意味する。だから、古典的な作品は、異なる時代背景や社会的環境のもとでも読者を獲得してきたのであり、同じ読者が人生の異なる時期に古典を再読し、新しい面白さをそこに見出すことも可能なのである。しかし、このような「文脈に依存しない面白さ」や「多面的な面白さ」を享受するには、それなりの人生経験と読書経験が必要であり、子ども、あるいは、読書経験に乏しい大人には味わうことはできないものなのであろう。