AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

タグ:責任

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忘却は責任ある主体の地位を脅かす

 人類は、その誕生から現在まで、つねに社会を作ってきた。たとえ実際には社会から離れ、孤立して生活している者がいるとしても、その生活は、つねに完全に社会的であり、他人に対する何らかの態度を表現するものとならざるをえない。

 すべての人間は、社会的な存在であるかぎりにおいて、何らかの責任を負い、その責任に対応する自由を与えられている。つまり、社会というのは、私たち一人ひとりがある程度以上の責任を負う主体であることを前提として初めて成り立つものなのである。罪を犯すと罰せられ、罪の責任を引き受けなければならないのは、「罪を犯さない自由」なるものが私たちに認められているかぎりにおいてであり、「罪を犯さない自由」が与えられていない場合、自分の罪に対し責任を負うことが不可能である。たしかに、「自由はないが、責任はとらされる」あるいは「責任はとらなくてもかまわないが、自由は認められている」などという事態が出現したら、それは、誰の目にも不正常と映るに違いない。

 社会が自由を享受し責任を負う主体からなるものであるという理解を前提とするかぎり、「責任」(responsibility) を負う状態にあることこそ、社会を構成する主体にとってもっとも重要であることになる。つまり、周囲からの呼びかけや問いかけに対しつねに正しい仕方で「応答」(response) する「能力」(ability) こそ、社会における主体の主体である所以なのである。

 したがって、社会が維持されるためには、私たち一人ひとりに課せられた応答の遂行は、外的な事情が原因で起こるあらゆる障害や干渉から守られねばならないものとなる。応答の遂行が何らかの事情により妨げられることにより、当の人間の主体としての地位が脅かされるからである。そして、このような障害や干渉のうち、特に怖れられているものの1つが「忘却」である。今日の予定を忘れる、部下の名前を忘れる、妻との約束を忘れる、自宅の電話番号を忘れる、あるいは、自分がどこで何をしたかを忘れる……、記憶の欠損が好ましくないものと受け止められるのは、これが社会生活を現実に混乱させるからであるというよりも、むしろ、本質的には、責任を負う主体の地位を脅かすものだからであると考えねばならない。社会的な存在としての人間にとり、忘却は最大の敵なのである。

記憶は、応答の必要に迫られて作り出されるもの

 とはいえ、忘却は、誰のもとにも訪れる平凡な出来事である。それどころか、現実には、私たちは、何らかの必要に迫られて覚えているものを除き、すべてを忘れてしまう。いや、正確に言うなら、私たちの記憶に残るのは、社会的な「応答」に必要なものだけである。記憶とは、「応答」のため、応答の文脈の内部においてその都度形作られるものであると言うことができる。記憶は、社会的な意味や文脈の内部においてのみ記憶であり、社会的な意味や文脈にふさわしく忘れることができる能力と一体のものなのである。

 忘れてしまうというのは、人間の精神衛生に不可欠の機構であり、「何もかも記憶している」「何も忘れない」などということは不可能である。目に映ったものを文字通り「すべてを覚えている」人間がいるとするなら、それは、事実上、何も覚えていないのと同じことである。というのも、このような人間には、自分の視覚や聴覚が捉えた映像に意味を与え、輪廓のある具体的な「情報」や「記憶」へと分節することができないはずだからであり、五感に対する無差別の刺戟がノイズの洪水となって意識を浸しているだけであるに違いないからである。自分の体験に意味を与え、社会的な存在としてのみずからのあり方――つまり、社会的な存在にふさわしい行動――へとこれを結びつけるには、取捨選択し、忘れることが必要となる。この意味では、私たち一人ひとりが社会の内部において負っている責任と社会から与えられている自由は、ともに、記憶された情報量に依存するものではなく、むしろ、記憶を作り出す力としての忘却の能力を前提とするのである。

Baxter on Location

 昨日、次のような記事を見つけた。

ロボット化する社員が企業の倫理的問題を招く

 ここで「ロボット化する社員」と呼ばれているのは、ある職場で設定されているルールに機械的に従うだけで、何のためにそのルールがあるのか、ルールに実際に従った場合、どのような事態が結果として惹き起こされるのか、などの点に考えが及ばない従業員のことである。マニュアルに盲従することにより、ロボットにかぎりなく近づくわけである。これに対し、この記事の筆者は、他からの指示を待ち、これを機械的に実行するだけではなく、何をなすべきなのか、自分で考えることが必要であることを主張している。

 とはいえ、この記事で述べられていることは、特に独創的なことでもなければ、新しいことでもない。むしろ、「何を今さら」という感想を持つ人の方が多いであろう。

 現代の社会では、ルールに対し(2つの意味で)機械的に(、つまり、機械のように正確に、そして、機械のように無反省に)従う人間は、きわめて有害で危険な存在と見なされている。自分の行動へと反省が向かわないため、悪をなしているという自覚のないまま、巨大な悪を産み出してしまうからである。これは、「悪の凡庸」(『イェルサレムのアイヒマン』)の名のもとでハンナ・アーレントが指摘したとおりである。

 ルールへの忠実な態度を要求する軍人や官僚の集団が先にあり、この集団が、ロボット化する従業員を産み出すのか、それとも、ロボット的なメンタリティ(?)の持ち主が集まって細かいルールを持つ組織を作り上げるのか、それはよくわからない。確かなことがあるとするなら、それは、ルールに機械のように従って行動する――だから、言われたこと以外は何もしない――従業員をコントロールするには、ソフトウェアのプログラミングのように、ルールを際限なく細かく記述しなければならないことになるが、このような措置は、従業員をますますロボット化することになる。

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 しかし、一度ロボット化してしまった社員に対し、何をなすべきかを自分で考えるよう求めるなど、可能なのであろうか。私は疑わしく思う。自分自身をロボットに擬することにより何らかの利益に与ってきた人間、具体的には、自分で考えることを放棄し、機械のようにふるまう習慣を身につけることで生活の糧を得てきた者は、自分で考えるなどという面倒くさいことは、徹底的に忌避するはずだからである。

 細かいルールが記されたマニュアルを破棄し、原則を簡潔に記述するだけのものへとあらためれば、従業員は、間違いなく混乱に陥り、組織はアノミーを避けられない。なぜなら、示されているのが抽象的な原則だけであるかぎり、この原則と個別の事例をつなぐ「中間原理」のようなものを自分で見つける作業がどうしても必要になるが、「思考」をもっとも要求するのは、この「中間原理」を見つける作業だからである。

 たとえば、ある飲食店に「客が満足するような料理を出す」という原則があるとする。この原則のもと、ある客がメニューにない料理を注文したとき、客の要求にどのように応えるかは、それぞれの従業員が決めなければならない。これが原則と個別の事例のあいだを媒介する「中間原理」であるが、この中間原理の内容はつねに同じではなく、状況により変化するものである。だから、「メニューにない料理を客から要求されたらどうするか」を問い、マニュアルに慣れた従業員に思考実験を促しても、大抵の場合、戻ってくる答えは「どうでもいい」であろう。

 また、客がメニューにない料理を実際に注文したら、接客する従業員は――「メニューにない料理は作らない」ことがマニュアルに明記されていれば、客の注文をその場で断るであろうが、マニュアルがない場合――この要求をそのまま別の従業員に丸投げし、この従業員はさらに別の従業員へとこれを丸投げし……、客への「応答」(response) は、無際限に繰り延べられることになるように思われる。

 マニュアルに従って機械のようにふるまうとは、「応答可能性=責任」(responsibility) を免除されるということであり、労働条件がどれほど劣悪であっても、自分で考えないかぎり、最終的な「責任」を負わずに済むという点において気楽なのである。ただ、社員の「ロボット化」は、それほど遠くない将来に解消される問題であるような気もする。というのも、人工知能が広い範囲で実用化されれば、「ロボット化した社員」――つまり「人力のロボット」――は、本物のロボットによって置き換えられ、人間に残るのは、責任を負うという仕事だけになるはずだからである。

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