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By Rob Hooft from The Netherlands - Car Free Ginza, CC 表示-継承 2.0, Link

 「歩行者天国」と呼ばれている措置がある。これは、公道から自動車を排除し、ある区間の公道全体を歩行者専用のスペースとするものである。(また、この措置によって車輌の進入が規制された空間もまた、同じ「歩行者天国」の名で呼ばれるのが普通である。)

 私は、東京の西の方で暮らしているから、「歩行者天国」という言葉を目にして最初に連想するのは新宿であり、次に連想するのは銀座であり、三番目に連想するのは原宿――現在は実施されていない――である。

 休日に所用があって新宿や銀座に行くと、街の一部が歩行者天国になっていることがある。歩行者天国が実施されているという理由でわざわざこれらの繁華街に赴くことはないけれども、普段は自動車が往来しているスペースを自由に歩き、普段は身を置くことができない地点に立ち、普段は眺めることができない視点から街を眺めることが刺戟となることは確かである。

 ところで、歩行者天国となった道路に立つとき、心に浮かぶ疑問がある。それが、この記事のタイトルに掲げた問いである。「歩行者天国が実施されているとき、その路上にあるものは公道上にあることになるのか」。しかし、私は、この問いに対する答えを持っていない。

 東京の繁華街で歩行者天国が実施されるときには、特定のエリアへの車輌の進入が規制される。この規制は、どのような法的根拠があるのかわからないけれども、警察によって行われるのが普通である。

 国道、都道、区道など、車輌の進入が規制される道路の種類はまちまちであるとしても、歩行者天国となる空間がもともとは公道である点については、すべて同じである。

 しかし、現実には、歩行者天国では、車道があるにもかかわらず、車輌の通行ができないのであるから、この空間は、都会の公道としての役割を失っている。車道に椅子が置かれ、歩行者が坐っているのは、この空間が公道としての役割を一時的に失っているからであると考えることができないわけではない。

 歩行者天国は、道路というよりも、むしろ、本質的には、仮設の公園と見なされるべき空間であるに違いない。

原宿、1970's。竹の子族→ホコ天バンド→カワイイの変遷【画像集】

 いや、原宿で歩行者天国が実施されなくなった理由が雄弁に物語るように、歩行者天国というものは、万人が出入り自由であるという意味では公共の空間であるとしても、共通のルールのもとで万人によって共同で使用される空間という意味における公共の空間ではないのかもしれない。

 実際、いわゆる「愛犬家」の中には、飼い犬を連れて歩行者天国に出向き、犬を係留せず自由に運動させる者がいるようである。もともと、いわゆる「愛犬家」には、公共のルールもマナーも守ることのできない者が少なくないけれども、歩行者天国に対し「ドッグラン」としての役割まで期待されているとするなら、歩行者天国は、決して「天国」のような理想の場所ではなく、むしろ、不快な刺戟と危険に満ちた場所になるおそれがある。

 私自身は――自分で自動車を運転しないからなのかもしれないが――都心の繁華街への車輌の進入を厳しく規制するのがよいと考えている。けれども、歩行者が主役となるような繁華街が生まれるためには、歩行者天国が道路であるのか、公園であるのか、あるいは、他の何らかの性格を具えた特殊な空間であるのか、この点に関する社会的な合意の形成が必要であるに違いない。