ロングシートはなぜか両端から埋まって行く
電車に乗ると、固定された座席があるのが普通である。(何年か前、通勤時間帯だけ座席が畳まれ、誰も着席できないようになる車両が東京のJRのいくつかの路線に導入されたけれども、これは、廃止されるようである。)座席が空いていれば、ここに坐るのもまた、ごく普通の行動であろう。
それでは、座席が空いているとき、どこに坐るのか。しかし、これが問題になるのは、車内に設置されている座席が「ロングシート」のみの場合である。ロングシートとは、車両の長辺の壁に沿って、窓を背にして坐るような形で固定された長い座席のことである。首都圏の電車の座席は、JRも私鉄も、一部の特急やグリーン車を除き、ほぼすべてロングシートである。なお、ロングシートではない座席、つまり、新幹線のような配列の座席はクロスシートと呼ばれているらしい。首都圏の路線でも、郊外に出て行く路線を走る車両には、このクロスシートとロングシートの混合型(セミクロスシート)が導入されている。調べたわけではないが、大都市圏以外を走る日本の電車の座席の大半がセミクロスシートなのではないかと思う。
ロングシートの場合、1つの座席に6人から7人が着席可能である。もちろん、空いているスペースが1つなら、着席する場所に選択の余地はないけれども、6人分あるいは7人分のすべてが空いているとき、つまり、誰も坐っていない座席に私が最初に坐るとき、一列に並ぶ6人分ないし7人分の座席のどこに坐るべきかというのは、真面目に考えるに値する問題であるかも知れない。というのも、この場合、どこに坐るかは、私の自由な決定に完全に委ねられているからであり、そこには「無差別の自由」(liberum arbitrium indifferentiae) が与えられているように見えるからである。
とはいえ、私の観察の範囲では、不思議なことに、誰も着席していないロングシート、つまり、6人分から7人分がすべて空いているロングシートを前にするとき、大半の乗客は、左右いずれかの端に坐る。なぜ端に坐るのか、私にはよくわからないけれども、そこにあるのは、「無差別の自由」ではなく、むしろ、何らかの優先順位が乗客一人ひとりのうちにあらかじめ形作られているのであろう。実際、これも私の観察の範囲ではあるが、端から2番目の座席に坐っている客は、端の席が空くと、なぜか空いた端の方に移動することが多い。
よどみとしての端
ロングシートの両端から埋まって行くのが全世界に共通の傾向であるのか、それとも、特殊日本的なものであるのか、私は知らない。とはいえ、完全に空いているロングシートを前にして端に着席する者は、車内の空間を別の何かに不知不識になぞらえているように思われる。
電車の車内の空間の形状は、大雑把に言うなら、長方形である。そして、モノ、乗客、空気などは、基本的にはすべて、長辺に沿って、車両の進行方向または反対方向へと流れて行く。これらは、前後に連結されている別の車輌へと流れて行くこともある。反対に、進行方向を横切る形でモノや乗客や空気が2つの壁のあいだを移動することは稀である。
このような方向の軸を強く自覚するとき、ロングシートの端にはある役割が与えられる。つまり、ロングシートの端は、車両の中で、2方向が区切られた唯一のスペースであり、河川になぞられるなら、そこは、流れが停滞する「淵」や「よどみ」に当たる部分なのである。ロングシートの端には、車両の前後方向へのモノや乗客や空気の奔流から身を守る「隠れ場」ないし「居場所」としての役割が期待されていると言うことが可能である。
クロスシートのみの車輌の場合、車両の長辺と直交する背もたれによって進行方向の軸が断ち切られている。クロスシートでは、窓際の席が「淵」や「よどみ」に当たるけれども、私の個人的な観察の範囲では、クロスシートにおける窓際の選好順位は、ロングシートにおける両端の選好順位ほどには高くないように思われる。
あえて中央に坐ってもよい
なお、私自身は、おそらく圧倒的な少数派なのであろう、誰も着席していないロングシートに坐るときには、原則として中央に坐る。私の体格は、私の同世代の中では平均サイズであろうと思う。それでも、左右に誰もいない方がラクであるし、見晴らしもよい。(また、非常に実際的な話になるけれども、7人がけのロングシートの中央に最初に坐ると、私の左右は、選好順位のもっとも低い座席になり、最後まで埋まらなくなる。中央にすでに誰かが坐っているロングシートを見て、2番目の客が先客の隣の席を選ぶことはまずないからである。
なお、私は、カフェテリア方式の食堂に長いテーブルに坐るときにも、全部が空いていれば、中央の席を選ぶことが多い。
たしかに、混雑した電車でロングシートの中央に坐っていると、相当な圧迫感に襲われる。電車から降りるのに時間が少しかかることも事実である。ただ、両端に身を置いても、事情はあまり違わないはずである。