AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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the KKK rally (circa early 70's)

見ず知らずの相手とのコミュニケーションが含む不確実性

 私は、SNSには原則として近づかないことにしている。ツイッターは気まぐれにしか使ってこなかったし、フェイスブックのアカウントは持っていない。直接の知り合いか、あるいは、私の仕事に何らかの関係がありそうな相手ならばともかく、完全な見ず知らずの相手とのネット上でのコミュニケーションは、大きな不確実性を含んでいるからである。見ず知らずの相手との意思疎通の困難については、以前に2回、別の観点から書いたことがある。


共生の悪夢と社会の「融和」 : アド・ホックな倫理学

昨日、次のような記事を見つけた。「学歴」という最大の分断 大卒と高卒で違う日本が見えている 高等学校卒業が最終学歴である人々と、大学卒業が最終学歴の人々とのあいだに、社会に対する見方に関し大きな隔たりが生れ、しかも、たがいに相手が社会をどのように見てい


「狂信」の背後にあるものがわかったとしても、意思疎通が可能になるわけではない : アド・ホックな倫理学

狂信の政治 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。 特に、マスメディアにお

 SNSにおけるコミュニケーションの不確実性というのは、一言で表現するなら、相手が何者なのかよくわからないことに由来する不確実性である。私が何かを発信する場合、私の言葉を相手がどのように受け止めるのかまったく見当がつかない。同じように、相手から私に向けて差し出された言葉を正確に理解するためには、言葉の背後にある暗黙の了解や文脈を共有しなければならないけれども、見ず知らずの相手の場合、このような点については、乏しいサインを手がかりにただ想像するほかはない。少なくとも、私の乏しい経験の範囲では、SNSで不意打のように成立する見ず知らずの相手とのコミュニケーションについて、上手く行ったという手応えが得られることは滅多にない。

 そもそも、SNS、特にツイッター上で、わずか140文字で見ず知らずの他人が言おうとしていることを正しく把握するなど、ほぼ不可能である。「正常な」コミュニケーションをツイッターで実現するためには、140文字を丹念に読み、前後のツイートを読み、誰をフォローし、誰にフォローされているかを確認することで、相手がどのような人間であるのかをあれこれと想像することが必須である。また、私が使う言葉は、慎重に選ばれなければならない。このような作業には、多くの時間と体力が必要となる。ツイッターは、スマートフォンで気軽に使うことができるようなものではない。しかし、ここまで用心しても、地雷を踏んでしまう危険がなくなるわけではない。

池に落ちた犬を叩く者たち

 自分の何気ない投稿に対して、見ず知らずの人間から意味不明な言いがかりをつけられ、この言いがかりが周囲に拡散して面倒なことになった経験がある人がいるかも知れない。もちろん、直接に対面しているのなら、あるいは、ブログやウェブサイト上での長文でのコミュニケーションなら、相手の誤解を解く余地、あるいは、落としどころを見つける余地が多少は遺されていると考えてよい。何と言っても、あなたがブログやウェブサイトに投稿した記事が問題であるなら、言いがかりをつける方もまた、あなたの立場を背景を含めて理解するために、それなりに時間をかけてあなたの言葉を読んでいるわけであるから、あなたは、言いがかりをつけてきた相手に対し、あなたの説明を聴き、あなたの言いたいことを理解する努力をいくらか期待することが許される。

 ところが、ツイッターの場合、誰かに言いがかりをつけられた瞬間にはすでに、さらなるコミュニケーションの可能性は閉ざされている。相手は、一種の狂信者であり、自分と違う考え方、自分と違うあり方を一切認めない。彼らは、何かに対し居丈高に怒り、何かに対し聞くに堪えない罵声を浴びせ、何かを吊し上げたいだけであり、このような人間にとって、あなたの言葉をあなたの身になって正しく理解したり、あなたの発言の背後にある前提や文脈を想像するなど、最初から関心の外にあると言ってよい。あなたは、マッチに点火するのに必要なマッチ箱の側面のようなものにすぎないのである。

 あなたに対する言いがかりが周囲に拡散するとしたら、それもまた、いかなる意味でもコミュニケーションではなく、ただ、あなたを晒し者にする一種の祭りに参加し、刹那的な偽りの一体感を体験したいだけであり、そこには、人間としてのあなたの尊厳への気遣いなど何もない。騒ぎがある程度以上大規模になるとき、これが「ネット私刑」などと呼ばれる理由である。

 現実の世界でも、サイバースペースでも、コミュニケーションの基本は、「相手の身になること」である。相手の身になり、相手のことを理解する努力が(たとえコミュニケーションが敵対的なものであっても)意思疎通の前提である。ただ、残念なことに、人間には、「相手の身にならないこと」「意志疎通の努力を放棄すること」がつねに可能である。実際、ネット上の見ず知らずの者たちの「交流」では、「誹謗中傷をこれ以上続けたら、相手は社会的に葬られてしまうのではないか」「これだけ大量の憎悪表現を寄ってたかって浴びせ続けたら、相手は立ち直れないのではないか」などの気遣いは、必ずしも前提とはならない。実際、ツイッターには、自分が罵声を浴びせる相手が精神を病もうと、自殺しようと、社会から抹殺されようと、そのようなことには一切頓着しない者たちが跋扈する一種の無法地帯としての側面がある。なぜ人間がそこまで思いやりを忘れることができるのか、これは人間の存在をめぐる1つの謎である。

After a long tiring day

 ずいぶん前から、私には、ある夢がある。それは、ある朝、目が覚めたとき、その日にしなければならない用事が何もなく、「さあて、今日は何をしようかな?」と心の中で――口に出してもかまわないのだが――つぶやきながら床を出て、ゆっくり朝食を摂りながらその日の予定を決める、というものである。

 もちろん、現実には、そのような朝が訪れる可能性は低い。私に限らず、多くの人々が、ひとりでは担いきれないほど大量の仕事を抱えており、目が覚めたときには、その日1日の予定がすでに埋まっているばかりではなく、翌日も翌々日も、すべての時間を「しなければならないこと」の処理に使わなければならないからである。

 だから、手帳に何も予定が記されていないばかりではなく、そもそも、しなければならないことが何もない状態で――ことによると、鳥のさえずりで――目覚めるなどというのは、荒唐無稽な夢物語なのかも知れないが、それでも、自由な時間を少しでも確保したいとつねに考え、時間に余裕ができることを基準に生活を組み立ててきた私のような人間にとっては、「さあて、今日は何をしようかな?」とつぶやくことで始まる1日が遠い目標であることに変わりはない。

 もちろん、私のこの夢または目標は、次のような批判を避けることができない。「人間は社会的な生き物であり、その価値は、どのくらい他人から必要とされているかによって決まる。『さあて、今日は何をしようかな?』とつぶやきながら床を出る、などというのは、社会から必要とされていない証拠であり、嘆かわしい生き方以外の何ものでもない、云々。」

 私は、どのくらい他人から必要とされているかによって人間の価値が決まるという考え方を好まない。たしかに、他人から頼られ必要とされることは、「生きがい」「やりがい」と呼ぶことのできるような気分を私の心の中に醸成する。それは、間違いのない事実である。しかし、このような「生きがい」「やりがい」に振り回され続けることで、自分がもともと立っていた場所がわからなくなる危険は決して小さくない。むしろ、他人の目に映った自分の姿を手がかりに自分の価値を探ることを続けていると、最終的には、「承認中毒」に陥ることを避けられないように思われる。実際、SNSの普及のせいで、「承認中毒」患者の数は、爆発的に増えているに違いない。したいことをするための自由な時間を確保することを私があえて第一目標として高く掲げているのには、時代のこのような傾向への異議申し立てという意味合いがある。

 ただ、自由な時間は、自律的な生活を保証するわけではない。時間がいくらあっても、何もしないということが可能だからである。実際、物理的な制約が少なくなるほど、人間は怠惰になるような気もする。それでも、することが完全に何もなくなったら、人間は、そのとき、すべきことをみずからの内部からひねり出すことになるはずである。そして、それは、周囲の目にはどれほど下らないと映ることであっても、それは、本人の生存にとって途方もなく価値のある活動であるに違いないが、それがどのような活動であるかは、「さあて、今日は何をしようかな?」とつぶやきながら床を出る体験をしてみないことにはわからない。(もちろん、アンドレ・ジイドが『法王庁の抜け穴』で描く「無償の行為」のように、それは、重大な違法行為であるかも知れない……。)


Texting addict

他人との交流の多くがネットで行われる中、あえてSNSを利用しないティーンがいる。友達からの「いいね」を求める生活を拒否し、フェイスブックやインスタグラムも利用しないが、彼らは何を得て何を失っているのだろうか。

情報源: 米国ではSNSに背を向ける10代も - WSJ        

 スマートフォン依存症、SNS依存症、ネット依存症というのは、自覚しにくい病気であるのかも知れない。しかし、日本でも外国でも、これは、明らかな「病気」と認められているし、国立病院機構久里浜医療センターにはネット依存症外来というのがあり、必要とあれば入院もできる。(もっとも、入院して治療することが想定されているのは、主に「ネトゲ廃人」らしいという話は聞いたことがある。)

 スマートフォンに関して最初に出てきたのは、スマートフォンの使用時間が長いほど成績が悪いという総務省の統計だった。つまり、スマートフォンの使用時間と成績のあいだには負の相関関係が認められるのである。とはいえ、スマートフォンをいじっていれば、勉強時間がその分減ることは明らかであり、成績が落ちることは、統計などとらなくても明らかなことかも知れない。

 しかし、その後、スマートフォンをいじっていると脳に悪い影響があるとか、うつになる――アメリカでは、もう何年も前から、フェイスブックの使用がうつを惹き起こすということがしきりに語られていた――とか、さまざまな研究結果が明らかになってきた。

 そして、きわめつけが次の本である。

毒になるテクノロジー iDisorder
ラリー D.ローゼン
東洋経済新報社
2012-08-24

 
  これは、インターネット、特にSNSの使用と各種の神経症との関係を、実験や調査を活用しながら分析した本である。これによると、SNSの使用は、

  • 自己愛パーソナリティ障害(ナルシシズム)
  • 強迫神経症
  • 依存症(スマホ中毒、SNS中毒)
  • 双極性障害(躁とうつ)
  • ADHD(注意欠陥/多動性障害)
  • コミュニケーション障害
  • 心気症
  • 摂食障害/身体醜形障害
  • 統合失調症
  • 覗き見趣味

などの神経症の原因となりうるか、あるいは、少なくとも、これと相関関係にある。

 スマホの使用は、そして、SNSの使用は、精神衛生にとってきわめて有害である。電車の中でスマートフォンを飽くことなくいじり続けている人間は、もはや正真正銘の病人あるいは障碍者と見るべきなのであろう。

 これまでは、路上での「歩きスマホ」の歩行者からぶつかられるたびに、不快な思いをしていたが、これからは、視覚障碍者と同じだと考え、同情することにしようと思う。

 ただ、私は、視覚障碍者には状況によって「お手伝いしましょうか」と声をかけるが、もちろん、スマホ中毒患者には声はかけない。聞こえないかも知れないからである。

Kyoto Whisky Bar

 昨日(2016年8月26日)付の「日経MJ」の3面に、クラウドファンディングを利用した飲食店の開業に関する記事が載っていた。

 誰でも知っているように、クラウドファンディングは、21世紀に入ってから広い範囲で使われるようになった資金集めの仕組みであり、「たくさんの個人」から、「小口の資金」を、主に「インターネット」を利用して出資を募るのが主流になっている。

 また、出資の対象となるのは、映画の製作であったり、新規事業であったり、弱者救済の社会事業であったりするのが普通であり、その中でも、特に飲食店の開業にクラウドファンディングが使われる事例が増加しつつあるというのが、上記の「日経MJ」の記事の内容である。

 とはいえ、クラウドファンディングは、新規開店の前の告知や固定客の獲得の手段として、あるいは、出資させることで店に対する愛着を客の心に植え付ける手段として使われているのであって、開業資金の調達が本格的に試みられているわけではないし、金銭面での利益を出資者に約束しているわけでもない。記事にあった

CF〔=クラウドファンディング〕は媒体

という言葉のように、クラウドファンディングは、一種の宣伝媒体のように利用されているのである。

 しかし、クラウドファンディングのこのような利用法は、飲食店には限られない。クラウドファンディングのサイトをいくつか見ればすぐにわかるように、他の事業でも、クラウドファンディングは、「応援して下さい」「支援して下さい」というお願いと一体になっているのが普通である。出資を募る側から見れば、一銭もカネを出さずに、いや、反対に、カネをもらって応援団やファンを作り出す仕組みであり、出資する側から見れば、カネを出して事業を応援する仕組みである。クラウドファンディングでは、普通の意味での出資に見合った金銭的な収益を得ることは想定されていないのである。この意味において、クラウドファンディングは、きわめて「ソーシャル」な仕組みであり、本質的にはソーシャルメディアであると言うことができる。

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 実際、クラウド ファンディングのサイトの中には、出資者がコメントを書き込むことができるようになっているものが多いが、そこには、「応援しています」「がんばって下さい」などのメッセージが溢れる。また、このようなメッセージを書き込んでいる出資者の多くは、事業主と知り合いだったりして、そこにはすでに「コミュニティ」ができ上がっていることもある。ここには、まるでカネだけを黙って提供するなど、見返りが欲しくて出資しているようになり、とうてい許されないかのような雰囲気、どこかで忠誠心を要求されているかのような窮屈な雰囲気が漂っている。

 クラウドファンディングのサイトでは、不気味なことに、出資者は、「支援者」とか「サポーター」とか「パトロン」と呼ばれる。フェイスブック上の知り合いが「友だち」と呼ばれるのと同じである。私など、「投資っていうのは、本当はそういうものじゃないはずだ」と心の中で抗議しながらも、怖気づいて足がすくんでしまう空気がここにはある。

 クラウドファンディングは、投資の仕組みではなく、本質的には「カネが動くソーシャルメディア」である。事業を始める者のファンになり、応援団になりたいのなら、クラウドファンディングを利用すればよいが、投資に見合った利益を金銭の形で求めるなら、株式や投資信託を選択すべきであろう。

 クラウドファンディングにおいて出資者に約束されているのは、金額に応じて、「お礼状」であったり「記念品」(?)であったり「開店イベントへの招待」であったりする。将来、クラウドファンディングのソーシャルメディア化が進行すると、いずれ、出資の見返りは「カネを出して応援した満足」などと堂々と書く事業主が現われないともかぎらない。しかし、このような段階になったら、そのとき、出資者が提供するカネは、もはや「資金」ではなく「お布施」であろう。

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