AD HOC MORALIST

人間らしい生き方をめぐるさまざまな問題を現実に密着した形で取り上げます。

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「事実に反している」だけでは偽ニュースにはならない

 以前、偽ニュースについて、次のような記事を書いた。


虚偽の拡散と心理戦 : アド・ホックな倫理学

11月にアメリカの大統領選挙が終わったころから、「偽ニュース」(fake news) という言葉を目にする機会が増えた。特に、いわゆる「ピザゲート」事件以降、広い範囲において偽ニュースに対する懸念が共有されるようになったように思われる。偽ニュース、小児性愛、ヒラリー


 言うまでもないことであるかも知れないが、「偽ニュース」というのは、普通には、虚言の一種と見なされている。もちろん、ある文が虚言であるためには、それが事実に反しているだけでは十分ではない。実際、事実に反する情報というのは、身の回りにいくらでもあり、私たちは、これと共存している。

 たとえば、一般に「時代小説」と呼ばれているものの内容は、事実に反する情報ばかりであるかも知れない。そこでは、架空の登場人物の言動が、あたかも実際に見てきたような仕方で語られる。これは、明らかな虚言である。また、実在の人物が作品に登場する場合でも、この人物の語る言葉が事実のとおりであったはずはない。池波正太郎は、江戸時代に生きていたわけではない。当然、彼の作品に登場する田沼意次が語る言葉は、池波自身がその場に立ち会って耳にしたことの再現であるはずはない。また、時代小説を読むとき、読者は、その都度あらかじめこのような事情を承知している。すなわち、読者は、第1に、現実の田沼が何を語ったかを知らなくても、池波が語っていることが事実のとおりではないことを理解し、それとともに、第2に、事実に反する情報が含まれているからという理由によって『剣客商売』を虚言のかたまりとして斥けることはないのである。これが、事実に反する情報との共存である。

虚言が罪かどうかは、相手が「真実を聴く権利」を持つかどうかによる

 アウグスティヌス以来、ある文が虚言と見なされるには、2つの条件が必要であると考えられてきた。すなわち、事実に反していることと、他人を欺く意図にもとづいて発せられていること、この2つの条件を同時に満たすとき、虚言は虚言となり悪となるとアウグスティヌスは理解する。つまり、他人を欺く意図の有無が虚偽と真実を分けると考えられてきたことになる。(誠実であることは、神に対しても人に対してもひとしく義務であるという了解が前提となっている。)

 文学作品の場合、そこに含まれる情報が事実に反するものであるとしても、虚言とはならないのは、他人を欺く意図が見出されないからである。つまり、事実に反する情報と同時に、この情報が事実ではないことを読者に知らせる何らかのサインがどこかで示されているのである。事実に反する情報を事実に反する情報として提示するかぎり、これは、虚言とはならない。

 このかぎりにおいて、他人を欺く意図というのは、明瞭な標識であるように見える。とはいえ、ここには、ある重大な問題がある。たとえば、不治の病に侵されている患者を励ますため、「大丈夫ですよ、きっと治りますよ」と言うのは、厳密に考えるなら、嘘をついていることになる。しかし、この嘘は悪であるのか。あるいは、誘拐犯を逮捕するため、身代金を渡すと偽って犯人を呼び出すのも、犯人に本当のことを隠しているという意味では、虚言に当たる。

 これは、アウグスティヌスが虚言を定義したのと同時に提起した問題である。つまり、2つの条件によって虚言を規定することにより、善意ないし必要によって嘘をつくことは悪であるのか、という問題が惹き起こされるのである。

 近代以降、この問題を取り上げた人々のあいだで正統的とされてきた解決策は、次のようなものである。すなわち、私たちは誰でも、「真実を言う義務」を負っているが、この義務を果たさなければならないのは、「真実を聴く権利」を持つ者に対してだけである、これが、善意ないし必要にもとづく嘘について受け容れられてきた枠組みである。この考え方に従うかぎり、犯罪者、敵国、幼児、精神疾患を患っている者などには、「真実を聴く権利」がないから、嘘をついてもかまわないことになる。

偽ニュースは「真実に耐える力」を試練にかける

 事実に反することを欺く意図をもって述べると虚言になり、このかぎりにおいて、虚言はさしあたり悪であるが、「真実を言う義務」は、「真実を聴く権利」に対応するものであるから、「真実を聴く権利」を持たない者には、嘘をついてかまわない。しかし、これが虚言に関する基本的な枠組みであるなら、偽ニュースを流布させることは、それ自体としては罪には当たらないかも知れない。

 たしかに、偽ニュースが誤って(虚偽から区別された)真実として受け取られ、偽ニュースにもとづいて何らかの行動が惹き起こされるということがないわけではない。そして、これは、「真実を聴く権利」の侵害に当たるから、このとき、偽ニュースは、斥けられるべき虚言となる。

 しかし、偽ニュースは、虚言からは根本的に区別されねばならない。一般に、虚言は、真実として通用するかぎりにおいて虚言である、という根本的な特徴がある。言い換えるなら、虚言が虚言であることが露呈するとともに、虚言はその力を失い、「破綻した虚言」あるいは「虚言の残骸」となる。虚言は、みずからの正体を偽ることにおいてのみ虚言なのである。「真実を聴く権利」なるものが意味を持つのは、そのためである。

 ところが、偽ニュースの場合、これが事実に反するものであることが具体的な証拠によって明らかにされても、偽ニュースとしての力を失うことはない。虚言が「真実として」伝えられて行くときにのみ虚言でありうるのに反し、偽ニュースは、偽ニュースとしての素姓が明らかになっても通用し続ける。偽ニュースというのは、事実に反しているといくら指摘されても消滅しないのであり、この意味において、抗生物質が効かない多剤耐性菌のようなものである。

 したがって、問題は、偽ニュースを作る者にあるのではなく、これを受け容れ、伝播させ、流布させる者の側にある。虚言が罪に当たるかどうかを判定する場合、もっとも重要であったのは、「真実を聴く権利」であり、「真実を聴く権利」を持つ者に嘘をつくことは罪に当たる。しかし、偽ニュースは、真実を聴く「権利」ではなく、むしろ、「真実に耐える力」を試練にかけ、人間にみずからの弱さを自覚させることにより、「真実に耐える力」が、「真実を聴く権利」や「真実を言う義務」よりもさらに根源的な仕方で人間の人間らしい生存を支えるものであることを教えているように思われるのである。

Washington DC

 11月にアメリカの大統領選挙が終わったころから、「偽ニュース」(fake news) という言葉を目にする機会が増えた。特に、いわゆる「ピザゲート」事件以降、広い範囲において偽ニュースに対する懸念が共有されるようになったように思われる。

偽ニュース、小児性愛、ヒラリー、銃撃...ピザゲートとは何か

 「偽ニュース」というのは、文字どおり偽のニュースである。英語版のウィキペディアの記事「偽ニュースサイト」(fake news website) によれば、偽ニュースの内容となるは、プロパガンダ(propaganda)、いたずら(hoax)、偽情報(disinformation) であり、虚偽を虚偽として掲載したりニュースのパロディを掲載したりする”news satire”――日本では虚構新聞がこれに当たる――とは異なり、「偽ニュースサイト」は、読者をミスリードし、欺き、そして、世論を誤った方向へと誘導する意図のもとに、ある情報が虚偽であるとわかっていながら、これを事実といつわって掲載するサイトである。

 実際、今回のアメリカ大統領選挙を始めとして、政治的な意思決定が偽ニュースによって阻碍されたり歪められたりするケースが散見するとウィキペディアには記されており、オーストラリア、オーストリア、ブラジル、カナダ、中国、フィンランド、フランス、ドイツ、インド、インドネシア、フィリピン、イタリア、ミャンマー、ポーランド、スウェーデン、台湾、ウクライナ、アメリカ、イギリスなどの事例が紹介されている。(ただし、中国は、偽ニュースを口実にネット上の検閲を強化しただけである。)

 欧米諸国では、偽ニュースの拡散が「心理戦」であること、民主主義の脅威であること、ネット上の「荒らし」の一種であることは共通了解になっており、さらに、偽ニュースの主なものが、ロシア政府が関与する「偽ニュース通信社」(pseudo-news agencies) が民主主義に対する信頼を損ね、社会を分断させるために流布させていることがすでに明らかになっている。アメリカ政府は、アメリカの大統領選挙期間中に流布し、ソーシャルメディアによって拡散した偽ニュースはほぼすべて、ロシアから発信されたものであることをすでに確認したようである。

 このような事実を考慮するなら、偽ニュースが拡散している現在の状況は、すでに戦争状態にあると考えるのが自然である。そして、この戦争は、自由と民主主義を標的とするものであるから、私たちは、偽ニュース(=デマ)――「陰謀論」の形をとることが多い――に騙されることのないよう細心の注意を払ってニュースに接することが必要となる。

 たしかに、偽ニュースの中には、私たちの耳に快く響くものがあるかも知れない。しかし、偽ニュースが耳に快いのは、それが私たちの妬み、憎しみ、怒りを正当化し、増幅させるからであり、オープンな討議による合意の形成を促すからではない。偽ニュースサイトが目指しているのは、否定的な情動を煽ることにより、民主主義と平和と自由の破壊であり、かゆい湿疹で皮膚が覆われるとき、これを治療する薬が与えられるのではなく、反対に、傷つき、出血し、化膿し、ただれるまで皮膚を掻きむしり続けるよう煽られているようなものなのである。

 だから、複数の大手のメディアが伝えていないような情報、ソーシャルメディアに由来するような情報は、どれほど耳に心地よいものであるとしても、決してそのまま受け止めるべきではない。社会を分断する可能性のあるニュース、少数者に対する敵意を煽ったり、政府の陰謀の可能性を示唆したりするニュースには最大限の警戒を忘れてはならないと思う。

 残念ながら、平均的な日本人のメディアリテラシーは決して高度なものではない。そのため、日本共産党――「偽ニュースサイト」がそのまま政党化したような集団――やその周辺の団体の宣伝に簡単に騙される日本人は、いまだに少なくないように思われる。(そもそも、社会の混乱を目標とする偽ニュースの流布は、ロシア革命以来、共産主義政党の得意技でもある。)

 しかし、共産党に由来するすべての主張と情報は、「政権をとる可能性がなく、したがって、自分の公約について責任を取らされるおそれがない」ことを前提とする――政府に対する国民の信頼が傷つきさえすれば何を主張してもかまわないという――無責任なプロパガンダである。共産党に代表される左翼の主張が社会の分断を目標とする虚偽であると想定すること、選挙において左翼の候補者が語ることを間違いか嘘と見ななして警戒することは、新しいメディアリテラシーの獲得のための最初の一歩であるに違いない。

 以前に述べたように、日本人は、個人としての政治家が嘘をついても驚かないのに反し、政党には無邪気な信頼を寄せているように見える。


「真理にもとづかない政治」と民主主義の危機 : アド・ホックな倫理学

甲状腺がん、線量関連なし 福島医大、震災後4年間の有病率分析 「真理にもとづかない政治」とは、post-truth politicsの訳語である。日本では、イギリスで行われたEU離脱の国民投票の際、「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) という言葉が何回かマス



 日本人に政党を疑う習慣がないのは、平均的な日本人が「政党」という言葉を耳にして最初に連想するのが自民党だからであろう。たしかに、自民党には、党員全員が一致して嘘をつくことができるほどの結束力はない。しかし、現実には、1つの政党が結束して組織的に嘘をつくことは可能であり、実際、共産党は、これまで組織的に国民を騙そうとしてきた。幸いなことに、これまで共産党(を始めとする集団)に騙された日本人は、相対的に少数であった。しかし、現在の世界がすでに戦争状態にあるなら、私たち一人ひとりが毎日の生活において社会の健全性を損ねるような敵から身を(というよりも心を)護ることは避けて通ることの許さない課題であるに違いない。


Jonah Who Lived in the Whale ....

狂信の政治

 2016年のアメリカ大統領選挙は、これまでの選挙とはいろいろな点において性格を異にする選挙であったと言うことができる。そして、そのせいなのであろう、マスメディアの多くが今回の選挙の特異な点をさまざまな観点から報道していた。

 特に、マスメディアにおいて繰り返し強調されていたのは、ドナルド・トランプを支持する有権者の熱狂である。外国、特に自由民主主義を標榜する先進国の平均的な国民の目に、この熱狂はいくらか不気味なものと映ったはずである。アメリカの大統領選挙の様子を伝えるヨーロッパのメディアがいずれもトランプの主張、あるいは、トランプの主張に賛同する狂信的な支持者を一様にペジョラティヴに扱い、さらに、狂信の経済的、社会的な背景の説明に多くの文字数と時間を費やしてきたのは、ある意味においては自然なことである。たしかに、多くのアメリカ人が社会の現状に対する強い不満を抱いているとしても、荒唐無稽で実現不可能な政策、あるいは、アメリカの国益を損なうことが確実な政策ばかりを掲げる候補者にこれほど多くの支持が集まるのか、当事者ではない者にとり、これは謎であるし、その理由を知りたいと考えるのは、当然のことである。

 とはいえ、狂信の原因がわかったとしても、現実に狂信に囚われている者たちとの意思疎通が可能となるわけではない。狂信者は相変わらず狂信とともに、あるいは、狂信のうちにあり、立場を異にする者が合意形成を目指して何かを語りかけても、耳を貸さないばかりではなく、内容を理解することのできぬまま、あるいは、理解する意欲もないまま、断片的な言葉を捉え、いわば「脊髄反射」のように誹謗中傷の言葉を相手に浴びせかけるばかりである。オープンな議論を拒むこと、「友でない者はすべて敵」というのが政治的狂信の意味だからである。

 民主主義が成立するためには、オープンな議論が不可欠である。オープンな議論の「オープン」の意味は、当事者の態度がオープンであることを意味する。すなわち、議論のプロセスにおいて自分の意見を柔軟に変えることを拒まないような当事者による議論がオープンな議論である。そして、オープンな議論にもとづく合意形成の原則は逆、つまり「敵ではない者はすべて友」である。

 そして、このようなタイプの狂信が現実の政治の場面に姿を現す――イギリスのEU離脱やアメリカの大統領選挙が典型である――と、「真理にもとづかない政治」(post-truth politics)「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) などと呼ばれることになる。事柄の真相や合理的な判断から目をそむけ、幻想や妄想だけを頼りに生きている姿は、覚醒剤中毒の患者を私たちに想起させるはずである。

「友でない者はすべて敵」という狂信は日本にもある

 しかし、このような狂信は、アメリカばかりではなく、わが国にも見出すことができる。ただ、日本人は、不気味な狂信のにおいを感じると、アメリカのようにこれに光を当てるのではなく、むしろ、これを話題にすることを避ける点に違いがあるだけである。先日、次のような記事を見つけた。

日本人の無自覚な沖縄差別

 私自身は、この記事に強い違和感を覚えた。その理由は、上に述べた点にある。すなわち、沖縄の「反基地」活動が「無自覚」の「差別」に対する反作用であるというのは、いかにも左翼の好みそうな見立てであり、しかも、一連の出来事の複雑な真相を切り捨てることによって作られた底の浅い見立てである。

 平均的な日本人が沖縄の基地問題について多くを語らないのは、関心がないからではない。そうではなくて、「反基地」活動に従事する運動家(つまり「プロ市民」)に不気味な狂信のにおいを感じるからである。実際、沖縄の運動家たちは、万人に対し全面的な同意をつねに強要する狂信者である。彼らにとり、自分たちの主張は絶対に真であるから、「友ではない者はすべて敵」となる。つまり、自分たちの意見に賛成しない者はすべて敵となる。彼らにとり、意見の一致を目指してオープンな議論に参加し、全員で協力して最適な解を見出す努力など、思いもよらないであろう。

 しかし、当然のことながら、無条件の同意を他人から強要され、「友ではない者はすべて敵」などと言われたら、私たちは誰でも、非常に窮屈な思いをする。そして、このような狂信者のことは、できるかぎり考えないようにするはずである。多くの日本人が沖縄について多くを語らないのは、狂信を忌避する自然な反応である。沖縄の「反基地」活動は、「差別」に対する反作用という観点からではなく、何よりもまず、狂信という観点から語られるべき事柄であるように思われるのである。


Brexit

虚偽にもとづく政治の拡大

 ジョン=スチュアート・ミルは、政治哲学上の主著に当たる『自由論』において、さまざまな種類の自由が社会において保障されることの意義を強調する。そして、よく知られているように、ミルがもっとも重要な自由と見なすのは、思想信条の自由であり、言論の自由である。

 ミルによれば、これは、健全な社会の発展に不可欠な自由であり、すべての自由の基礎となるものである。なぜなら、1つの問題に関し異なる複数の意見を知ることにより、これらを比較し、よりよいものを選び取ったり、みずから新たな意見を表面したりすることが初めて可能になるからである。少数意見が無視されてはならないのは、そのためである。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

 しかしながら、言論の自由が実現しても、現実の社会は、ミルが期待したとおりの姿を私たちに見せてはいない。むしろ、社会の多様性が増大するとともに、「見たくないものは見ない」「聴きたくないものは聴かない」というかたくなな態度、そして、このような態度を是認する一種の開き直りが社会のいたるところに見出される。

 もちろん、これは、日本に固有の傾向ではない。外国、特に先進国でも事情は同じである。いや、アメリカの大統領選挙、ヨーロッパにおける極右政党の台頭、イギリスのEU離脱などを見れば、これらの国々の方が、事態は深刻であるようにも思われる。アメリカの大統領選挙の共和党の候補者であるドナルド・トランプの場合、これまでの選挙戦での公的発言の少なくとも70%が完全な嘘、残りの30%もほぼ嘘と評価されており、また、この点に関する認識は、マスメディアを介してアメリカでは広く共有されているはずである。つまり、トランプが「誠実」という美徳とは無縁の存在であることは、誰の目にも明らかである。それでも、ある程度以上の有権者が彼を支持していることもまた事実なのである。

All of Donald Trump's Four-Pinocchio ratings, in one place

人間は言論の多様性に耐えられるのか

 このような状況を眺めていると、私たちは多様な言論というものに耐えられないのではないか、言論の自由など望んでいないのではないか、という不穏な予想が心に浮かぶ。

 たしかに、中国やロシアを始めとする独裁国家には、言論の抑圧に抵抗する活動を続けている人々がいる。このような抵抗は、当然であり、また、貴重でもある。ただ、このような人々が要求するのは、自分たちの意見を公然と語る自由である点は忘れてはいけないと思う。彼ら/彼女らは、ミルが望んだような「言論の自由」一般を要求しているわけではないのである。

 調べればすぐに露見するような嘘であっても、心地よく響くならばこれを信じるという態度が政治に蔓延している。しかも、この嘘は、長期的な展望にもとづく嘘ではない。短期的、刹那的な効果のためだけに作られた単純な嘘である。そして、このような嘘が作られ、受容される反知性主義的な政治風土が「真理にもとづかない政治」(post-truth politics) とか「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) と呼ばれているものである。前に書いたように、日本では、共産党がこれを代表している。

「真理にもとづかない政治」と民主主義の危機 : アド・ホックな倫理学

甲状腺がん、線量関連なし 福島医大、震災後4年間の有病率分析 「真理にもとづかない政治」とは、post-truth politicsの訳語である。日本では、イギリスで行われたEU離脱の国民投票の際、「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) という言葉が何回かマス


 1つの言論空間において多様な意見が互いに影響を与え合いながら、全体として合意形成へと向かってゆっくりと進んで行くプロセスの前提として「言論の多様性」を理解するなら、この意味における言論の多様性は、少なくとも現在の日本には見出すことができない。今のところ、わが国の言論空間では、多種多様な意見が混じり合うこともなく、影響を与え合うこともなく、ただ併存しているだけであり、それぞれが信者のような存在によって支持され再生産されているにすぎない。この傾向は、最近は、左翼において特に顕著であるように見えるけれども、右翼に関しても、事情が大きく異なるわけではない。自分の意見に耳を傾けるのが信者だけであり、何を語っても批判的に吟味される可能性がないのであるなら、事実との関係を考慮することなど、いささかも必要ではないことになる。必要なのは、信者を満足させることだけだからである。

 虚偽と無知にもとづく言論が冷静な対話の余地を奪い、これが言論の質を低下させ、劣化した言論は、耳に心地よい話しか受け付けない信者を増やす……、この悪循環が日本の言論空間をボロボロにしているように思われる。しかし、残念ながら、この悪循環から抜け出す道もまた、私たちは閉ざされているように思われるのである。


2012 09 30デモ 161


甲状腺がん、線量関連なし 福島医大、震災後4年間の有病率分析


 「真理にもとづかない政治」とは、post-truth politicsの訳語である。日本では、イギリスで行われたEU離脱の国民投票の際、「事実にもとづかない民主主義」(post-factual democracy) という言葉が何回かマスメディアで使われた。これは、EU離脱派が、国民が問題を多面的に検討するのを妨げるばかりではなく、国民を煽り立て、その結果、国民の判断を誤らせたからであり、イギリスのマスメディアにより、post-factual democracyという言葉を用いてこの事態が繰り返し指摘されたからである。(なお、post-truth politicsという言葉が最初に使われたのは2010年である。)

Post-truth politics

 また、英語圏のメディアでは、EU離脱ばかりではなく、アメリカの大統領選挙におけるドナルド・トランプに対する異常な支持も、「真理にもとづかない政治」「事実にもとづかない民主主義」の徴候と見なされている。また、こうした現象は一過的なものではなく、世界の政治が「真理にもとづかない時代」「事実にもとづかない時代」に入ったことの証拠であるという悲観的な論調が支配的であるように見える。

 しかし、それ以前も、また、それ以後も、日本では、少なくとも今までのところは、私が知っている範囲では、これが話題になってはいない。とはいえ、日本がこれと無縁であるわけではない。

 「真理にもとづかない政治」「事実にもとづかない民主主義」というのは、簡単に表現すれば、反知性主義的なポピュリズムのことである。日本の場合、このタイプの政治を目指すのは、主に左翼政党であるから、「真理にもとづかない政治」「事実にもとづかない民主主義」は、共産党にその典型を見出すことができる。つまり、日本における「真理にもとづかない政治」「事実にもとづかない民主主義」とは、反知性的な左派ポピュリズムなのである。「シルバー民主主義」は、その1つの現われである。

 日本人は、ながらく自民党が与党の政治に慣れてきた。自民党がすばらしい政党とは思わないけれども、それでも、重要な政策に関し、自民党が一枚岩になって国民に嘘をつくことはない。政治的な意思決定が重要なものになるほど、党内からの異論が烈しくなり、マスメディアがこれを報道することにより、論点が国民に見えるようになる。だから、事実上の一党支配であっても、そこには、ある程度までは民主主義的な合意のプロセスが成り立っていたのである。

 ところが、共産党は、一応は政党であっても、自民党とはまったく性格を異にする「プロパガンダ政党」である。(また、民進党も、プロパガンダ政党になろうとしている。)このような政党は、自分の利益になることだけを、事実にも真理にもよることなく主張する。つまり、共産党の場合、「一枚岩になって国民を騙す」危険はつねにあるし、実際、共産党は、ほとんどつねに、みずからの利益のために国民を組織的に騙そうとしてきた。

 しかし、国民は、政治家個人によって欺かれることには慣れていても、政党によって組織的に騙されることには慣れていない。つまり、日本人は、プロパガンダ政党に対する免疫がないのであり、これは、わが国にとり、非常に危険な状態である。(実際、政治家が虚偽を流布した場合には、これを罰するいろいろな法律があるが、政党が虚偽を流布しても、これを法律によって罰することはできない。政党が組織的にウソをつくことは想定されていないということなのであろう。)

 すべての政策には、メリットとデメリットの両面が必ず見出される。よいだけの政策とか、悪いだけの政策など、この世にはない。民主主義社会における政治は、近代以降の多くの政治哲学者が一致して語るように、メリットとデメリットを正しく見極めた上で、社会全体の利益という観点からの政策の是非をオープンな討議によって決めるものである。そして、マスメディアの本来の役割は、合意形成の前提となる情報を批判的に明らかにすることにある。

 ところが、この数年のあいだに政治的な争点となってきた問題、たとえば、原発、安全保障、大阪都構想など、いずれも、共産党を始めとする左翼政党は、有権者にメリットとデメリットを見極めさせ、ゆっくりとした合意形成を促すのではなく、有権者の目を現実から逸らせ、虚偽を流布することにより、自分たちに有利な行動へと国民を駆り立てようとした。

 国民がテクノクラートの言うことに耳を傾けるのをやめ――それはそれでかまわない――しかし、だからと言って、「本当のところはどうなっているか」をみずから調べて考えるわけでもなく、根拠のない思い込みと期待のみにもどついて行動するというのは、私の見るところ、もはや政治でも何でもない。これは、情動を刺戟されているだけの動物的行動にすぎない。荒唐無稽な主張を掲げて飽くことなく繰り返される左派のデモ活動は、反知性主義的ポピュリズムの動物性を見事に表現している。

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